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▼ 函館市文学館 [RES]
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 12:05  No.225
  現在、函館市文学館にて、企画展「石川啄木遺品展〜百回忌によせて〜」開催中。
http://www.zaidan-hakodate.com/bungakukan/

 
▼ 展示資料一覧
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 12:08  No.226
  ●「爾藝多麻 一の巻」明治三十四年九月号
(盛岡中学校時代の回覧雑誌第一号)(「秋草」は現在発見されている中では啄木の最初の短歌。)
●「小樽のかたみ」
(啄木直筆の感想文「小樽日報と予」と啄木が小樽日報紙上に書いた三面記事の切り抜き、及び退社広告の記事。)
●「朝日歌壇第一輯」(啄木が選者を務めた「朝日歌壇」のスクラップノート。直筆の前書きがある。)
● 字音仮字便覧
● Swinton's Fifth reader and Speaker. Blakeman and co.
● Swinton's Fifth reader
● Lehruch der Deutschen Sprache (ドイツ語会話読本)
● Old favaourite English songs, Etc 2 (楽譜)
● Mother earth (大逆事件を扱ったアメリカの雑誌)
● 新独和辞典
●「葬列・林中書・一握の砂」
(諸雑誌に収録された三つの作品のスクラップを啄木自身の手で合綴したもの.)
●〔未だ世に出でざる石川啄木の歌・全〕
(宮崎郁雨らによりハトロン紙の片面に貼付された新聞掲載短歌のスクラップ八十三枚)
● 国語字音仮名遣便覧
● 新訳英和辞典
●「ローマ字世界」 (ローマ字で書かれた雑誌)
● 改正東京市街電車明細地図
● 戸籍謄本
(明治四十三年、東京転籍の際に渋民村から取り寄せ、大学病院の施療を受ける目的で使われた)
●〔真一葬儀収支帳〕 (節子夫人が認めたもの)
●〔金銭出納簿〕 (節子夫人により、啄木の死の翌日まで認められたもの)
● 石川節子肖像 (木村捷司画)
● 宮崎郁雨肖像 (木村捷司画)
● 石川啄木肖像 (齋藤咀華画)

 
▼ 小樽のかたみ(従来)
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:10  No.237
  私たちが知ってる(と思っていた)「小樽のかたみ」は、
http://www.swan2001.jp/takuimg/takup27.jpg
でした。これは学研の「現代日本文学アルバム・第4巻/石川啄木」からとった画像ですが、他の文学アルバムでも同様です。どの本でも同じ画像が「小樽のかたみ」については使われています。この一冊に、筑摩版全集に載せられた順に、「小樽日報と予」〜小樽日報記事の切り抜き〜退社広告記事が配置されていると理解していたのですが…
ただ、そうだとすると、この写真はちょっと不思議な写真なんですね。どうして「小樽日報と予」だけ取りだすことができるのだろう。一冊のスクラップ帳に、なにか挟み込むような形で「小樽日報と予」は付けられているのだろうか?とか。
あるいは、表紙と思われる左側の部分なんですが、この上下の縁にある三角の黒ずみが、なにか図書館で使うパンフレット・バインダーを連想させるのです。もしかしたら、これは「小樽のかたみ」の表紙ではなく、函館の図書館なり啄木会なりが本体保存のために付けたカバーなのではないかとも考えました。ちょうど本体の「小樽日報と予」のページを開いて、その脇に、これが「小樽のかたみ」であることを証明するためにカバー部分を添えたのだろうか?とか。(それにしては、「カバー」の字体は啄木の字体そのものですから、やはりこれは「表紙」なのかなぁ?とか)

 
▼ 小樽のかたみ(今回)
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:13  No.238
  「小樽のかたみ」にはいろんな想いがあります。おそらく実物を見る機会はこれが最初で最後だと思いましたから早く函館には行きたかったです。(東京でなくて、よかった…)
で、これが、「小樽のかたみ」表紙。
http://www.swan2001.jp/takuimg3/katamimosha.jpg
小汚い絵で申し訳ない。なにせ、館内撮影禁止。文学館の職員でさえ資料に触ることはもちろん、レプリカ作成でさえそうそうホイホイとできるものではないらしいです。ガラスケース越しに拙い模写をするのが精一杯でした。

 
▼ 小樽のかたみ(一期一会)
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:15  No.239
  学芸員の竹原さんから受けた解説、及び、翌日いただいた電話による補足説明を総合すると次のようになります。
まず、私たちが「表紙」だと思っていた部分、あれは「標題紙」でした。本の造りでいうと、表紙を捲ると見返し。その見返しをさらに捲ると本の題名や著者名が書いてあるページが出てきますね。それが「標題紙」です。だから、「小樽のかたみ」というタイトルの脇に「明治四十年神無月から師走まで」という野暮ったい副題も入っていたのでした。そこを捲ると、「小樽日報と予」、そして日報記事の切り抜きと続いて行きます。(桜庭チカの描いたカットの配置は今回もわからず…)
写真の右側にあった「小樽日報と予」はレプリカと思われます。函館市文学館も同じようなやり方をしていました。(実物「小樽のかたみ」の横に「小樽日報と予」レプリカを展示)
表紙は、全体にクリーム色の地に、墨字で「小樽のかたみ」。碁盤の目のカットが背後にかかり、上部に碁石の絵。下部に扇子(芭蕉扇?)のようなものと棒(杖?)のようなもののカット。碁盤と碁石の絵は裏表紙まで続いているそうです。これらの絵、たとえば囲碁をやる人ならなんなく知っているようなものなのかもしれませんが。学がなくて、ごめん。
啄木にこのような絵心があるとは思えませんから、あるいは、これは桜庭チカの絵とも考えたのですが、なにか画風が全然ちがう。竹原さんの話では、「小樽のかたみ」は、一冊の本に綴じ合わせた後、その上から包み込むように例の碁盤の紙をかけて造ったように見えるということなので、おそらくは、当時の小樽に出回っていた何かの包装紙とか囲碁の雑誌などから切り取った紙で綺麗な表紙を仕立てたのでしょう。時間的に、当時の啄木に、桜庭チカに連絡をとって表紙の絵を描いてもらうなんて余裕はなかったと思いますし。

 
▼ 戸籍謄本
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:24  No.240
  今回の展示の中で、予期せぬ衝撃だったのは「戸籍謄本」でした。本当に吃驚。啄木のプライバシーもあるのでここではこれ以上書けませんが(全集年譜には書いてある)、長年不思議に思い続けてきた母カツや妹光子たちと啄木との動きかたがなんとなく理解できたようにも感じました。ぜひ、函館に行ってご自分の目で確かめてください。
玉石混淆ともいえる今回の「啄木遺品展」。啄木研究上ではあまり重きをおかれていない「小樽のかたみ」だからこそ、函館啄木会もそんなに意識せずひょっと出してきたものなのでしょうか。(戸籍謄本も…) 何度も繰り返して申し訳ないが、生きている内に「小樽のかたみ」をこの目で見ることができて幸運でした。


▼ 北海道新聞に見る「一握の砂」百年 [RES]
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:52  No.227
   昨年は啄木の「一握の砂」が刊行されてから百年.名だたる研究者、ファンからのコメントがマスコミ紙上を賑わせました。啄木も在職していた釧路新聞。それもルーツに持つ北海道新聞記事に、啄木の北海道を探ります。
http://www.swan2001.jp/takuimg3/doshin201012.jpg

 
▼ @−a 創作に色香 人間性深く
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:54  No.228
   まずは、2010年11月19日夕刊見開きの大特集。

 短歌、詩、評論など、26年と2ヶ月の短い生涯の中で生みだした作品が今も多くの人の心をとらえる石川啄木。その才能の開花は、1年弱に及んだ「北海道漂泊」の日々抜きには考えられない。その象徴ともいえる珠玉の歌集「一握の砂」は、12月1日で刊行からちょうど100年になる。啄木は北海道で何を得たのか。歌集を手がかりに、天才歌人と北海道のかかわりにあらためて光を当ててみた。(黒川伸一)

 北海道体験が色濃くにじむ「一握の砂」。国際啄木学会前会長・近藤典彦氏のコメント。

 啄木は北海道に渡って初めて本格的な勤め人になった。内地とは全く違う北海道の自然とそこに懸命に生きる人々の姿は生活者啄木の胸を打った。いわば北海道で『人間発見』をした。それが後に、多くの名歌を生み出させることになる。

 片面は「創作に色香」として、北海道定番の三人の女性、橘智恵子、小奴、梅川操をとりあげている。橘智恵子について、函館の研究家・桜井健治氏は、

 代用教員の啄木に対し、智恵子は訓導(正教員)。啄木の片思いだったが、偉ぶらずに接したその清楚さに対する思い入れは相当なものだった。

 
▼ @−b 創作に色香 人間性深く
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:55  No.229
   梅川操について、釧路啄木会会長・北畠立朴氏は、

 「一握の砂」では、梅川関連の歌は2、3首だが、北畠さんによると釧路新聞紙上で「一輪の赤き薔薇(そうび)の花を見て火の息すなる脣(くち)をこそ思へ」など9首が掲載。啄木が釧路を素材にした小説「病院の窓」で、梅川がモデルの看護師を美化したり、釧路を去る前に、大切なかるたを梅川に託したことなどをとらえ、「彼女は当時としては珍しい進歩的な女性。啄木はそんなところにひかれたと思う」と指摘する。

 梅川操再評価の気運。「啄木を愛した女たち」(太陽)を6月に刊行した札幌の放送作家・佐々木信恵氏も、釧路のふたりの女性について、

 橘智恵子には歌がたくさん残されたが、実際は表面的な付き合いしかできなかった。しかし釧路時代のふたりとは短時間だったが、互いに内面に深く入った。啄木は小奴には優しさ、梅川には情熱を感じたと思う。特に梅川から燃え上がるような恋心を見せられ、逆に新鮮に映ったのでは。

 記事で、三人の女性を詠った啄木の歌のカウントが、近藤、桜井、北畠の三氏でそれぞれ異なっていることが報告されている。大変興味深い。

 
▼ A 郁雨連載「一握の砂」書評 一冊に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:56  No.230
   (2010年12月2日)

 石川啄木(1886〜1912年)の親友で、後に義弟になった宮崎郁雨(1885〜1962年、函館)が、啄木の第1歌集「一握の砂」刊行をうけて、函館日日新聞紙上で長期連載した同歌集に対する書評と啄木の返信書簡を採録した、「なみだは重きものにしあるかな−啄木と郁雨」が東京・桜出版から出版された。啄木研究者の遊座昭吾さん=盛岡市=が、「一握の砂」刊行100年の1日に合わせて刊行した。
 (中略)
 遊座さんは、函館市中央図書館に保存されている同新聞をもとに、こうした掲載記事を再現し、啄木と郁雨の強い友情の交換を浮き彫りにした。「100年間、図書館に眠っていた最初の『一握の砂』書評のみずみずしさを感じてほしい」と話す。

 
▼ B−a 啄木献辞本 今も岩見沢に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:58  No.231
   (2010年12月10日 夕刊)

 石川啄木が北海道体験を経て生み出した第1歌集「一握の砂」(全551首)が刊行されて100年がたった。刊行時、啄木は何冊かの献本をしたとみられるが、とりわけ思いを込めて贈った一冊が、函館区立弥生尋常小時代の同僚教諭、橘智恵子の嫁ぎ先、岩見沢市北村の北村牧場で今も大切に受け継がれていることを知る人は少ない。また、森鴎外への献辞入りの献本も新たに発見された。珠玉の歌集の献本については全容が分かっておらず、研究者の関心が集まっている。(黒川伸一)

 北村家に嫁いだとも知らず、札幌の智恵子の実家に贈られた一冊について、

 智恵子は、贈られた「一握の砂」の裏表紙裏に、この(啄木の)はがきを張り付け、生涯秘蔵した。智恵子の死後にその存在が分かり、現在は、北村牧場で智恵子の長男(故人)の妻、北村千寿子さん(91)が保管している。同牧場は「今後もきちんとした形で残していきたい」(経営者の中曽根宏さん)という。

 
▼ B−b 啄木献辞本 今も岩見沢に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:59  No.232
   記事には北村牧場本の写真もついており、キャプションに、

 北村牧場本の裏表紙裏に張り付けられた啄木からのはがき。智恵子が家族に見られないよう、厚紙を張った跡も残る

 一方、森鴎外に贈られた一冊について、近藤典彦氏は、

 啄木は鴎外にその才能を買われて愛されていたが、あることから啄木側にわだかまりが生じたとされてきた。しかし、この献辞の確認は、鴎外への敬愛が生涯続いていたことを示しており、啄木と鴎外の関係全体をとらえ直す上で画期的な資料

 
▼ C 「啄木は思想家」
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:01  No.233
   (2010年12月14日 小樽後志欄)

【余市】 国際啄木学会前会長の近藤典彦さん(71)=旭川市出身、神奈川県在住=が町中央公民館和室で「石川啄木の偉大さ」と題して講演し、1910年の大逆事件や韓国併合を著作で取り上げた啄木の思想家としての一面を語った。
 北星余市高校の教師経験がある近藤さんは啄木研究の第一人者。5日の講演で、「啄木は歌を作っただけの人ではない。詩人であり、小説家であり、書家でもある。さらにジャーナリストであり、優れた思想家であった」と指摘。(後略)

 
▼ D 校正の仕事に悩んだ啄木
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:02  No.234
   (2010年12月18日)

 歌集「一握の砂」が刊行100年を迎えた石川啄木。彼は北海道新聞の源流の一つである札幌の新聞社「北門新報」に約2週間、校正係として在籍していました。
 愛好者でつくる「小樽啄木会」の水口忠会長は「時代を読む先見性があり、3行書きの短歌は当時は画期的。天才だと思います」と話します。同じような仕事をする私も誇らしい気になります。
ただし、彼は校正の仕事を快く思ってはいなかったようです。「不知、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞に拙く眼のみ光れる、よく此札幌の風物と調和するや否や」(秋風記、石川啄木全集第4巻、筑摩書房)。
 晩年の「悲しき玩具」にはこう詠んでいます。
  みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ、
  誤植ひろへり。
  今朝のかなしみ。
 故郷・岩手の新聞を読み、間違いを見つけてむなしさを感じる啄木の姿がありました。水口さんは「道内にいたころも東京に出て文学で活躍したいという願望(東京病)がありました。想像ですが校正と文学とで乖離を感じたのでしょう」と推し量ります。(後略)

 
▼ E 啄木と郁雨 山下多恵子著
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:04  No.235
   (2010年12月19日 書評)

 今年は石川啄木の歌集「一握の砂」が刊行されてから100年にあたる。いまもなお多くの人びとに読み継がれている国民的歌集だが、そのなかで啄木が献辞をささげた人物の一人が宮崎郁雨だ。啄木を物心両面で支え続けた函館時代の文学仲間である。
 本書は2人の友情を軸に、文学的視点からそれぞれの生涯を描き出した異色の評伝。著者は新潟県在住の評論家で国際啄木学会理事。
 郁雨は1885年(明治18年)、新潟県生まれ。4歳のとき函館に移り、やがて父親は、みそ醸造所を起こし財を成した。啄木が1907年(明治40年)に函館へ渡って来たことで2人の交流が始まるが、啄木は札幌、小樽、釧路と道内を転々とした後、08年には妻や母などを函館に置いて上京する。以後、残された家族の生活を一手に引き受けたのが郁雨だった。
 文学という大きな夢と才能を持ちながら、生活という切実な問題を抱えて身動きができなくなっている友人を支え続けた郁雨。彼に厚い信頼を寄せた啄木。本書はこれまで見過ごされがちだった郁雨に関する資料も丹念に読み解き、2人の交流と郁雨の存在が啄木の文学に与えた影響を、あらためて明らかにしている。
 本書には、「啄木と雨情」と題された評論も収録され、札幌、小樽時代の啄木と、そこで深く交流した、後の童謡作家・野口雨情との関係を論じる。郁雨を論じた部分と併せ、啄木の北海道時代が新たな視点からとらえ直され、興味深い。 (中舘寛隆=編集者)

 
▼ F 啄木の歌碑 武井静夫
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:05  No.236
   (2010年12月22日夕刊 コラム「えぞふじ」)

 石川啄木の歌碑が、倶知安町に2基ある。倶知安駅前公園に建っている
  真夜中の/倶知安驛に/下りゆきし/女の鬢の/古き痍あと
と、同町旭が丘公園中央広場に建立されている
  馬鈴薯の/花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を/好きたまふらむ
とである。
 啄木が函館から小樽に行く列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治40年(1907年)9月14日の午前1時すぎである。21歳の啄木は、妻と子を函館に置き、北門新報に入社のため単身札幌に向かっていた。(中略) 倶知安は開墾がはじまって15年、街には電灯もともっていなかった。(後略)

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▼ 京極空想碑 [RES]
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:04  No.211
  なんてことはない小樽の寿司料理店である。けれども、その店頭に「明治40年9月、石川啄木一家、ここに住む」の看板が建てられれば、事態は大きく変わる。この店は、啄木ファンが小樽をめぐる際の聖地になるからだ。文学散歩の昼食は、ここ。啄木忌の講演が終わったら、打ち上げは、ここ。

湧学館で「後志の文学」講座を開いているが、第3回「胆振線」〜第4回「北の沢」を終えて、京極町にはこんなに町オリジナルの素材があるのに活かさないのはもったいない…と思うようになりました。以下、京極の空想碑です。

 
▼ @沼田流人文学碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:09  No.212
  【碑文】
 誰も彼も、揉みくちゃになった襤褸のように疲れきっていた。
 あの、食物を盗まれた老人は、沈んで行く夕陽に掌を合せて礼拝し、側に立っていた同僚にそっと囁いた。
『日が暮れる………。兄弟………。』
 彼は、小児のように嬉しげに、微笑していた。意地悪い蝎は、それを見逃さなかった。
『老毫纂奴……仕事さえ止めれば、歓んであがる!』
不運な老人は、太陽に感謝した罰で、その額を一つ殴り飛ばされた。
(沼田流人「地獄」)

【案内板】 沼田流人・ぬまたるじん。
 明治31年(1898)6・20−昭和39年(1964)11・19。小説家。岩内郡老古美村(現・共和町)に生まれる。はじめ山本一郎といい、明治38年に養子となって沼田明三となる。大正10年2月の「種蒔く人」(秋田版)に小説「三人の乞食」が掲載されたが、発売禁止になったため本人はその事実を知らなかったという。倶知安−京極間の軽便鉄道「京極線」の敷設工事がはじまったのば大正6年からだが、倶知安に居住していた流人は現在の京極町北岡に集められた土工たちの悲惨な労働を見聞し、それをもとに長篇小説「血の伸き」(叢文閣、大12)を刊行した。発売禁止になったが、同じ素材によったのが同15年9月の「改造」に載った「地獄」である。ついで昭和5年には「監獄部屋」(金星堂)を上梓した。流人は倶知安の地で労働運動の協力者として地味な生活を送ったが、戦後の23年5月から倶知安高校で書道の講師を勤め、その地で没した。

 
▼ 解説1
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:10  No.213
  この碑の場所は「軽川(がるがわ)トンネル」跡地しかないでしょう。それも、トンネルの倶知安側。タコ部屋のあった場所。できるならば、今は塞がれている軽川トンネルを開けて中を通れるようにして、倶知安側に「沼田流人」碑。そして、京極側に、本山悦恵さんの「雪灯り」碑か、あるいは小林多喜二の「東倶知安行」碑がいいのですが…(多喜二碑については、他の案もあります)

 
▼ A本山悦恵「雪灯り」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:11  No.214
  【碑文】
 やがてトンネルに入った。窓の隙間や入口から容赦なく煙が入り込み、旦那は襟巻で顔を覆っている。ほどよい振動でウトウトしていた鈴は咳き込み、旦那の膝に顔を埋めていた。
 信治郎はその苦し気な様子を見て、腰の手拭いを取り、鈴の顔に当ててやった。
 「あんた、なかなか気が利くね。わしはどうも気が回らん」
(本山悦恵「雪灯り」)

【解説】 本山悦恵・もとやまえつえ (調査中)

 
▼ B小林多喜二「東倶知安行」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:12  No.215
  【碑文】
 夜空が高く、青く澄んでいた。マツカリヌプリ裾野の空気は硝子張りのように凍えていた。空一杯の星が氷粒のような鋭い光を放っていた。晴れ渡った野天の夜空が如何にも大きく、広かった。その感じは小樽などでは決して無かった。
――底から冷たかった。
 演説会が終って、雪の狭い一本道を皆が一列に帰って行った。道に掘らさっている馬の蹄や馬橇の窪みに足を落さないように、私達も汽車に乗るために、その列に入っていた。雪の、寒気(しば)れた夜道は皆の足駄や下駄の歯の下でギュン/\と鳴った。
(小林多喜二「東倶知安行」)

 
▼ 解説2
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:13  No.216
  軽川トンネル跡・京極側に、「雪灯り」碑か、「東倶知安行」碑を…と思うのは、どちらも当時の「京極線」の「京極駅」風景を描いているからですが、当の京極駅跡地にはでっかい工場が建ってしまっているので、あえてそこに碑を建てるよりは、軽川トンネルに建てた方が小説の雰囲気に適っているかなと思ったのです。トンネル内を通って、京極線跡をずーっと「ふきだし湧水公園」あたりまで遊歩道でつないでしまえば、けっこう良い観光スポットになるのではないでしょうか。

 
▼ C小林多喜二「東倶知安」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:14  No.217
  【碑文】
 ――お前はレーニンのように「あがめられたい」と思っているのだ。
 ――お前はたゞ無産階級運動の「大立物」になりたいためばかりに一生ケン命なのだ。
 ――お前は一生の間こうして一生ケン命になって、自分がそのまゝ埋もれ、しかもこの運動が一寸目鼻もわからないとしたら、とっくの昔に裏切ってしまっていたのだ。
 ――お前は中央に出て行って「認め」られたいためにしている。この運動が東京だけで出来るとでも思っているように。
 そうでないとは云わせない。お前の心の何処かゞそればかを望んでいたのだ。
 私は白状しよう。――私は、そうだった!
(小林多喜二「東倶知安行」)

【解説】 小林多喜二・こばやしたきじ
 明治36年(1903)10・13−昭和8年(1933)2・20。小説家。秋田県で没落農家の次男として生まれた。明治40年に一家は伯父を頼って小樽に移住し、大正5年から庁立小樽商業学校に学び、同10年に小樽高等商業学校に進んだ。一級下に伊藤整がいた。同13年北海道拓殖銀行に勤める傍ら同人雑誌「クラルテ」を主宰し、文学運動と共にやがて労働運動にも身を置く。この時期に不幸な境遇の田口タキを識った。「一九二八年三月十五日」で高い評価を得たあと「東倶知安行」「蟹工船」「不在地主」を続々中央の文芸雑誌に発表して反響を呼ぶ。銀行を解雇された多喜二は昭和5年に上京し、精力的に創作活動と共産党活動を続けたが、地下連絡中に逮捕されその日のうちに拷問によって虐殺された。行年30歳。
 「東倶知安行」には、昭和3年の第一回総選挙において北海道一区に労農党より出馬する山本懸蔵の応援演説のため当時の東倶知安村(現・京極町)に駆けつけた小林多喜二や演説会場となった光寿寺(現存・京極町字京極800)が描かれている。また、開通から十年が経過した「京極線」の様子が描かれていることでも貴重な作品となっている。

 
▼ 解説3
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:16  No.218
  小林多喜二「東倶知安行」碑にふさわしい場所が、もうひとつ。それは「山懸」(小説では「島正」)の演説会場となった「光寿寺」です。現在も「光寿寺」としてそのままの姿で残っているこの場所の意味を大切にしたい。碑文に、「東倶知安行」からあえてこの部分をとりだしたのは、通俗的な「小林多喜二」解釈を脱したいから。「東倶知安行」がなぜ私たちの心を打つのか。それは、小説のラストにこの数行があるからだと信じて疑いません。小樽でもなく、東京でもなく、京極に建つべき碑であると思います。

 
▼ D大町桂月「脇方」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:27  No.219
  【碑文】
独向白雲深処遊
丹楓黄桂満山秋
水枯却喜不長舌
賎々渓聲落枕頭
東倶知安鉄山にて
      桂月作

【案内文】 大町桂月・おおまちけいげつ
 明治2年(1869)1・24−大正14年(1925)6・10。高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。雅号の「桂浜月下漁郎」はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年は遠く朝鮮、旧満州にまで足を延ばしている。桂月は北海道層雲峡の名付け親でもある。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。碑文は、大正十年八月の大雪山登山の帰路、日鉄鉱業北海道工業所の所長をしていた甥の大町政利(鉄石山人)を訪ねて東倶知安村脇方に泊まった際、求めに応じた桂月の残した漢詩。深まりゆく脇方の秋を詠っている。

 
▼ 解説4
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:29  No.220
  教養がないので、大町桂月の漢詩や書がどれほどのものなのか、よくわからない。ただ、京極町で桂月の碑を建てるというのならば、碑文はこの詩以外にはないだろう。場所も脇方以外には考えられない。桂月碑は、大雪山や南アルプス山頂に建てられるなど、異色であり、また、それが故に有名でもある碑が多い。現在、脇方には新日鉄倶知安鉱山碑がすでに建てられている関係で、羊蹄山山頂(京極町)へ桂月碑を持ってくるというアイデア(当然ながら桂月は羊蹄山にも登っている)もなくはないが、まあ順当に考えて、脇方でしょう。折衷案として、脇方から羊蹄山がくっきり望めるようなロケーションがよいのではないでしょうか。

 
▼ E「わっかたさっぷ」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:31  No.221
  【碑文】
私は大正十四年九月、
倶知安鉱山の再開した年に輪西製鉄所から脇方へ来まして、
爾来、昭和二十六年三月までの二十七年間、
会社名は、(株)日本製鋼所、輪西製鉄(株)、輪西鉱山(株)、
日鉄鉱業(株)と変わりました。
また、その度に経営者も変わったのですが、
私は脇方鉱山のみに勤務していましたので、
いわば井の中の蛙と言うところでしょう。
顧みるに脇方は、
ワッカタサップ時代の明治四十一年四月、集団入植以来六十四年。

 
▼ 解説5
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:32  No.222
  出典は、佐々木六郎著「わっかたさっぷ」。自費出版の本。その冒頭の文章です。
昔、京極町脇方にあった新日鉄倶知安鉱山に二十六年間奉職した佐々木六郎氏の回想録。佐々木氏の著作なのですが、本の中に、別の著者「鉄石山人」こと大町政利氏(←解説4)の随筆集「脇方の思い出」が120頁にわたって入ってくる…という不思議な造りの本。
現在、脇方には新日鉄倶知安鉱山碑がすでに建てられているのですが、なにか、あの碑は素っ気ない。もっと「鉄石山人/わっかたさっぷ」碑といったようにコンセプトを揃えて(案内板も添えて)、胆振線・脇方駅碑なんかもできたら添えて、ここに「脇方」という町があった…という形をバーンと出した方がよいのではないか。林芙美子も「鉄山をひかえた倶知安の町へ来ました」(最初の北海道旅行の時、倶知安から夫宛に出した葉書)とまで書いています。今、脇方へ行っても、鉱山碑以外、何の目印も案内板もないため、5分ととどまっていられません。本当にもったいない話だと思う。ここから鉄が出たおかげで、後志全体のいろんな事物が変化していったのだということが示されれば、一日散策していても足りないくらいいろいろな意味が埋まった土地なのに。

 
▼ F 峯崎ひさみ「北の沢」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:34  No.223
  【碑文】
 おやじの熊撃ちを目の当たりにしたのはそれが初めてだった。身体の震えはなかなか止らなかった。いったん止んだ風花が、身じろぎもしない熊と夥しい血の上に舞い始めていた。戸がきしみ、手かざししながら母親が出て来た。薄物の裾が乱れ、肉付きのいい臑が見え隠れしていた。土に滲みきれず渦になっている血を踏んで、母親はおやじの側に歩み寄った。それはまるで、息絶えた熊の肉体から抜け出した化身のようにも見えた。母親は眩しそうにおやじを見上げた。息苦しかった。母親は袂の端を唾で濡らすとつと白い腕を伸ばし、おやじの髭面の返り血を拭った。俺の心臓が音立てて鳴った。
「ええ男だの……」
(峯崎ひさみ「穴はずれ」)

 
▼ 解説6
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:36  No.224
  京極の町に本当に必要なのは、この、峯崎さんの「北の沢」碑ひとつかもしれません。@からEまでの空想碑は、つまるところ、記念碑です。これこれの出来事がこの京極の町にありました、と。でも、この「北の沢」碑はちがいます。なんと云ったらいいのか、この「北の沢」碑をこの町に建てるということは、これからも、私たちは、この町に、この土地に生きてゆくんだという決意表明というか。そういう性質の碑ではあります。若くしてこの土地を離れ、遠く千葉の浦安で「北の沢」の物語を書き続けている峯崎さんのスピリットを尊く思う。だからこそ、こうして、これからも私たちは「北の沢」を生きてゆくのだという想いの空想碑なのです。「北の沢」碑にはいろいろな碑文が浮かんでは消えたのですが、いろんな想いをぎゅっと絞って、最初の出会いの地「穴はずれ」の村に戻ってきました。

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▼ 農業協同組合発祥之地 [RES]
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 19:58  No.199
  虻田郡京極町の旧北岡小学校校門跡地(現北岡バス停)にひっそりと建つ「発祥の地」碑。
http://www.swan2001.jp/image10/apr2722.jpg

 発祥の地碑
 京極町農業協同組合が昭和43年10月30日、字北岡の国道ぶち(北岡小学校入口)に建立。表面に京極町農業協同組合発祥之地・裏面に

 大正八年十一月この地に東倶知安軽川信用購買販売利用組合が設立せらる。これ本町農業協同組合の前身にして本農協二十周年記念行事の一環として組合員の総意により、これを碑文に止め永く記念するものである。
  昭和四十三年四月七日
             京極町農業協同組合組合長 理事 中村 盛雄

と記入している。碑の総高120p、幅1m。碑文はテラゾー盤に刻みコンクリート台にはめこみでモダンなデザインである。
(京極町史/第12節 京極町の碑)

 
▼ 産業組合の誕生
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 19:59  No.200
  9 産業組合の誕生
 大正7年度後志支庁概況には大正6年末の後志管内産業組合一覧表が出ているが、その中に「東倶知安購買販売組合」は大正2年2月5日の設立で管内第14番目の組合となっている。また「カシプニ信用購買販売組合」は大正4年12月22日設立で、この2組合の組合数その他は次のようにしるしている。
             組合員  出資  積立金   購買額   販売額
東倶知安購買販売組合   48人  2,175円   ―   12,990円  32,916円
カシプニ信用購買販売組合 45人  2,100円  318円  4,013円     ―
 大正11年版東倶知安村勢一覧には次の4組合が記載されている。
有限責任 北カシプニ購買販売組合  28人
 〃   カシプニ信用購買販売組合 45人
 〃   東倶知安購買販売組合   51人
 〃   軽川信用購買販売組合   50人
 組合の名称からみると北カシプニと東倶知安の両組合は信用事業を行なっていなかったことになる。
(京極町史/第4章 大正期の東倶知安/9 産業組合の誕生)

 
▼ 東倶知安購買販売組合
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:01  No.201
   東倶知安購買販売組合
 その設立の動機や組合区域などはよくわからないが、多くの産業組合は農民の組織であるのに、此の組合は市街の人が中心であった。組合長は初代日下杉松が当選し、2代目柳田登次郎、3代目畑川角太郎、4代目進藤重次郎と続いているが、京極村史には「事業を始めて幾何もなくして経営不振に陥り遂に大正10年11月30日解散するに至った」と記載している。
(同書より)

 
▼ カシプニ信用購買販売組合
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:03  No.202
   カシプニ信用購買販売組合
 この組合は大正4年の創設で字カシプニー円を区域とし、肥料、農具の共同購入と信用事業を目的とし、勝世徳太郎、加藤仁一郎、片山助一郎、紺谷友吉らにより、南2線74番地野村愛市郎方を事務所として開設した。そして組合員の利便を図り、よく実績を挙げたが設立年限の10年の期間満了とともに大正14年12月に解散した。
 歴代の組合長  初代野村愛一郎、2代小倉幸市郎、3代加藤仁一郎
(同書より)

 
▼ 北力シプニ信用購買販売組合
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:05  No.203
   北力シプニ信用購買販売組合
 この組合は大正8年8月に設立したが、組合区域は字カシプニー円及ペーペナイの一部となっている。この区域は後の脇方地区であって、まだ「脇方」は駅名だけで地名になっていなかったので北カシプニと名付けたものである。
 組合員数は72名、出資金は186口、5,550円。設立の動機は「開拓事業の進展に伴い金融機関と産業必要物資の購買、生産物の販売、利用の目的」で、阿部熊七や阿部長之助らの発起による。
 大正8年9月8日設立認可とともに、脇方駅前に事務所を設置し、貯金、日用品と農業用品の購買事業を始めた。
 大正11年軍用燕麦の納入を開始、販売事業の第一として541俵納入した。
 大正15年2月25日、名称を有限責任脇方信用購買販売利用組合と改称。同年8月42坪の農業倉庫を脇方駅構内の一部払い下げを受けまた日本製鋼所用地の一部借用し計120坪余の敷地内に建設した。この工費1万2千円、補助金9千円、組合員奉仕延200人と記録している。
 この組合は昭和12年、東倶知安村信用購買販売利用組合に吸収合併された。
 歴代組合長  初代阿部熊七、2代小野喜六、3代堀慶太郎、4代阿部熊七
(同書より)

 
▼ 軽川信用購買販売利用組合
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:07  No.204
   全村産業組合の基となった軽川信用購買販売利用組合
 現在の京極町農業協同組合の前身である有限責任東倶知安信用購買販売利用組合は、軽川の組合がその基をなしたもので、本町の産業経済の発展と農民生活の安定に寄与した実績は大きい。
 この組合の歩みについては昭和6年6月に作製した「組合誌」があるので、その一部を抄記する。この組合誌は第1章軽川組合時代が4節まで、第2章拡張準備時代は9節まで、20ぺ一ジほどの冊子である。
(同書より)

 
▼ 組合誌より@
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:09  No.205
  「 設立の事情及経過
 (イ)産業及民情、(ロ)設立前の金融状態…当時尚新開地の通幣たる「仕送り」制度によるもの少からず、春季倶知安町の商人より肥料米噌の貸付を受け、秋季に至り農産物を以て債務を果す事とするが故に売買共に損失を甘受せざるを得ざるもの尠からざる状態なりき、而も一面無肥耕作の余弊は収量年毎に減じ、穀価亦大戦当時を夢みるべくもあらず農家生活の窮乏漸次甚しからんとする傾向あるを看取し、有志等是が対策として産業組合の設立を企図するに至りしは豆成金の夢漸く冷かならんとする大正8年の春なお浅き3月なりき。
 (ハ)設立の準備組合設立の発端は、木下喜一郎氏当時第17区長(現第20区)たりし本間敬三方を訪い同志相当の金額を出し合い、過燐酸肥料の共同購入をなさば価格に於て利あるのみならず、同年秋開通すへき京極線寒別駅にて受取り得べく、倶知安より運搬するに比し運賃に於ても亦多大の利便あるべしと言うにありしが、是れに信用組合を兼営して相互の金融に便し一方勤倹貯蓄の美風を作興せんとの議熟し、翌日長老故谷安太氏に助力を求めし所、快諾激励の辞をよせられしかば勇気頓に加わり、更に部落内の有力者故細田友市、故大磯茂三郎、河村唯平、川原宇太郎、斎藤勘之丞等諸氏の賛同と種々の援助を得て準備は着々進捗せり。
 次いで翌日当時混沌の域を脱せざりし組合界に嶄然頭角を現し居たる倶知安信用組合長伊藤助治を其の私宅に訪い、定款法規等に就き懇切なる指導を受け、尚、支庁産業組合係湯ノ川孝作氏を紹介せられたるを以て同氏の指示を受け定款の作製に着手せり。(中略)

 
▼ 組合誌よりA
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:10  No.206
   本組合は(1)、1口の金額を最高50円とし、組合員の持分を平均5口とし、1か年の払込を最小金5円とし漸次資金の充実を期すること。(2)、当初の区域を軽川と限定し、逐次拡大すること。(3)、事務所を組合長宅に置き一切の事務を組合長処理し且つ之を無報酬とすること。(4)、当初数か年は信用事業を主とし、購買品は肥料のみとし、販売事業として軍用燕麦の納入をなし資金回収に充て経験を得るに従い品目を増加し事業を拡張すること。
 等の数項を発表して4月3日小学校に設立者の会合を催せし処、集まるもの26名申込み口数45口を得たり。氏名次の如し
2口 岩佐 広太郎  2口 河村 唯平  1口 福家 亮一  2口 尾池 武吉
2口 大磯 茂三郎  1口 高橋 与三次   1口 武市 幸太郎  1口 金原 源二郎
2口 斎藤 勘之丞  1口 古屋 信一  1口 伊賀 榊  1口 横井 金四郎
1口 三木 甚平  3口 藤本 庄太郎  2口 川原 宇太郎  5口 本間 敬三
5口 谷 安太  2口 細田 友一  1口 倉 与太郎  2口 木下 喜市郎
1口 粥川 義一  1口 木下 仙助  2口 阿部 辰太郎  1口 青木 益蔵
1口 福家 市次郎  1口 水岡 治助

 設立
 前記の諸氏を設立者として同月24日設立認可申請を支庁に差出し同年11月22日許可の指令を得、第1回の払込みをなすと共に新加入者を勧誘せし処総組合員70名、出資317口に達するの盛況を見、私かに会心の笑をもらして翌年度の事業の準備にかかれり。

 
▼ 組合誌よりB
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:12  No.207
   第2節創業当初の試錬……翌大正9年設立日尚浅く幹部は経営の経験絶無なるに組合員も亦末だ組合の何たるを解するもの少く加うるに資金貧弱にしてさなきだに経営困難の年なりしに農業所要物資何れも空前の高騰を示し試みに今当時の記憶をたどりて主なる物資の価格を挙ぐれば
 過燐酸 15%10貫入 5円〜6円、白米 1俵20円〜25円、玉砂糖 1斤(200匁)40銭、軍手 1双25銭、木綿縞 1反2円50銭
斯の如き市況なれば組合員の所要肥料を現金買すること思いもよらず……(中略)……当時の窮状寧ろ憐むべきものありしなり。
 かくて、自己資金に4倍する9,000円近き債務を負い幹部は私財を以て之を保証する等散々なる苦心を払いたり。然るに天何ぞ農民を苦しむるの甚しき、その秋収穫期に入るや穀価空然の暴落を見たり之を前年に比較するに8年度大福及白丸、14〜15円が9年度5円〜6円に、小豆10円が5円に、玉蜀黍5円が2円50銭。斯くの如き状態なりしかば、到る処に破産倒産続出し、夜逃げをなすものすらあり、甚だしきは1日に2組合員逃亡せしとの報に接したることすらあり、(中略)組合員の減ずること20、出資口数170の減少を来せるを見るも打撃の如何に甚だしかりしかを想察するに難からざるべし。
 大要、以上の様に創立当初は苦難の連続であったが、大正13年には上山梨部落から新加入者20名を迎えて陣容を一新した。組合員数は62名、322口、純財産20,766円」と記載している。

 
▼ 全村組合へ
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:14  No.208
   こうして種々の経験を重ねながら昭和3年度に第1次拡張をやり区域を役場以西、下目名の一部、ペーペナイ一円とし利用事業も加えた。さらに昭和6年第2次拡張を実現するまでに成長し、事務所を市街に移し、脇方地区を除く全村を区域とする中枢組合に発展した。そして昭和12年には懸案の全村組合となったのである。
 農村不況や冷害凶作を乗り越え、人の和を得て、ここまで発展したことは、人望のあるりっばな人物が組合を背負ってくれた事、理想をめざす同志の固い結合の成果である。
 拡張準備時代の資金運用状態としての次の表が上記組合誌に掲載されている。

        組合員数  自己資金  借入金  自己資金に対する比率
昭和3年度  135人   34,963円   8,000円   24%
昭和4年度  153人   36,757円   7,337円   21%
昭和5年度  161人   36,648円  16,721円   45%
昭和6年度  203人   39,395円  28,098円   70%
昭和7年度  400人   60,000円  45,374円   74%
  但し6年度は6月現在、7年度は予想

  ○ 歴代組合長 本間敬三、河村唯平、谷安太、谷芳美
  ○ 昭和6年4月役職員  組合長理事 谷芳美
   理事 塩野道太郎、高橋与三次、坂本太治郎、福永友一
   監事 荒岡為一、川原宇太郎
   顧問監事 本間敬三
   書記 福原林吉、田村民安
(京極町史/第4章 大正期の東倶知安/9 産業組合の誕生)

 
▼ 本間敬三
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:16  No.209
   本間敬三の苦労
 初代組合長本間敬三の苦労は、ひとかたならぬものがあった。細田熊吉の手記には本間の苦労がよく書かれている。たとえば、設立の手続なども4月に出したのが、ようやく11月に認可になっているが、その間の本間は再三、再四、支庁へ行ったり、道庁へ出向いてるが、費用はすべて自費だった。本間は人の顔さえ見れば産業組合の必要を説き設立病にとりつかれたと思う程の熱心さであった。大6年の畑作収穫後は毎日同志勧誘に出歩き「冬の6尺の雪の夜、私は行先不明の本間さんを迎えに出た事も数えきれない程だった。また本間さんは、他家へ泊ると迷惑をかけるからと泊らぬ事にしていた。どうしても泊めてもらう時は、自分の布団を背負って出かける事もあり、交通不便の当時、ツマゴ、赤毛布、脚はん、モンペ姿でした。」と書いている。東奔西走、そして人の和を説いた本間は傑出した人物であった。
(同書より)

 
▼ 大農発祥之地?
  あらや   ++ ..2010/06/21(月) 20:18  No.210
  京極町史「9.産業組合の誕生」は上の本間敬三の話で終わるのですが、その次の章は、なんと鈴木重慶の登場なんです。このまま続けて「10.鈴木農場」に入って行こうかな…とも一瞬思ったのですが、ちょっとスレッドが長くなりすぎますね。季節がうまく会ったので、スワン社資料室の六月の方で扱おうと考えています。

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▼ 樽新の坂牛君 [RES]
  あらや   ++ ..2010/04/25(日) 07:26  No.190
   今日は急しい日であつた。明日の紙上に附録とすべき釧路発達状態一覧の統計を編んだ。午前中に視察隊の一行が来て、一緒に社の前で撮影した。緑子は一行を案内して安田の炭山などへ行く、自分は午後四時漸々斧を揮つて編輯を締切つた。(中略)
 七時沢田君と共に、有志発起の視察隊歓迎会に望む。会場は喜望楼。来会者約八十名に上り、仲々盛会であつた。樽新の坂牛君、タイムスの小川君、道庁属にして詩人夜雨君の兄なる横瀬君らに逢ふ。市ちやんと鶤寅の小奴は仲々の大モテで、随分と面白い演劇もあつた。帰りに一行の宿なる三浦屋を訪ねて、小川黙淵君と築港問題について談る。
(明治四十一年日誌/二月二十一日)

 
▼ 啄木日記(明治四十四年)
  あらや   ++ ..2010/04/25(日) 19:13  No.191
  札幌区、北一、西十三ノ一  大島経男○△
石狩、空知郡北村第二区、北村農牧場事務所  北村智恵
札幌区北七、西四ノ一    坂牛祐直○△
小樽区、真栄町三九、白鳥方 桜庭ちか
釧路町天寧         吉野章三○△
函館区、青柳町三六     岩崎正○
小樽、港町小樽新聞社内   本田龍(荊南)
小樽区、花園町十三、    澤田信太郎○△
小樽区、南浜町六ノ一 旭川歩兵二十六レンタイ第二中隊第五班 高田治作 △
小樽区南浜町、濱名方    藤田武治○△
小樽区花園町十四、     佐田庸則○△
函館区東浜町三二      斉藤哲郎○
札幌区北八、西五ノ一    向井永太郎○△
小樽区稲穂町畑十四、    上田重良○△
室蘭町札幌通山中事む所   岩本實 △  坪仁 △
(「明治四十四年当用日記補遺/住所人名録」より北海道関係部分)

 
▼ 鉄道冬期操業視察隊
  あらや   ++ ..2010/04/25(日) 19:14  No.192
   操業視察隊は、北海道鉄道管理局によって組織され、名簿に見られるように、道庁役人・函館・札幌・小樽の主要三都市の商工会議所役員の他、P・R用として新聞雑誌の記者を同行させていた。視察の目的は、一行に道内の幹線全部を一巡して鉄道側の苦心の実況を見てもらおうということであった。
 したがって、主催は鉄道当局であり、報道関係者もみな招待されていた。
(小林芳弘「啄木と釧路の芸妓たち」)

鉄道操業視察 近時鉄道貨物の停滞甚だしく一般世人の攻撃せらるもところなりしが其局に当る者亦大に茲に意を注ぎ其の原因等を調査し計漸く成りたるや今回本道鉄道官理局長野村氏は本道各地の新聞社より記者一名つゝを招待し本道鉄道操業の状況を巡覧せしむると云ふ其の巡覧日割等は左の如し、第一日札幌発夕張着第二日夕張発室蘭着第三日室蘭発旭川着第四日旭川発釧路着第五日釧路滞在第六日釧路発旭川着第七日旭川発札幌着第八日札幌発函館着第九日函館滞在第十日函館発札幌着(第一日に二月十七日して全廿六日て終了の筈なり)
(釧路新聞 明治四十一年二月十一日)

道庁属市川祐雄氏、同横瀬農夫也氏、札幌商業会議所議員藤沢栄蔵氏、小樽商業会議所副会頭佐々木静二氏、函館商業会議所書記長大石三津雄氏、北海タイムス小川忠之助氏、北海道新聞小倉白洋氏、北世界外川水哉氏、小樽新聞坂牛祐直氏、小樽日報沢田信太郎氏、北海旭新聞森屋献六氏、上川新聞船木吉民、右の外東道役として北海道鉄道管理局長野村氏、運輸係長中里氏、車輔係長鷲島氏の三氏も同道せられたる
(釧路新聞 明治四十一年二月二十二日)

※ 釧路新聞記事は、小林芳弘著「啄木と釧路の芸妓たち」からの孫引きです。

 
▼ 坂牛天民
  あらや   ++ ..2010/04/26(月) 17:02  No.193
  ◎坂牛祐直 盛岡の生まれ。ペンネームは“天民”。専修学校で経済学を修めたあと、日刊岩手公報の編集長として活躍。次いで盛岡市制施行とともに市役所庶務課長に就任、八年間の市会議員の生活から同郷の先輩・上田重良の経営する小樽新聞に入り、日露戦争の従軍記者をはじめ札幌支社長などを務めた。真面目な品格ある大記者として通っていた。
(功刀真一「北海道樺太の新聞雑誌」)

 
▼ 小樽新聞@
  あらや   ++ ..2010/04/26(月) 17:05  No.194
   小樽で誕生した北門新報が札幌に進出したのとは逆に、札幌に生まれて小樽に移った新聞が大成した。それがやがて北海タイムスと長く競り合った「小樽新聞」である。
 明治二十六(一八九三)年五月八日、阿由葉宗三郎によって札幌に発刊された「北海民燈」は、はじめ月一回発行、菊判四十ページの雑誌であったが、この年十一月一日の発行から週二回のタブロイド判四ページの新聞に改めた。阿由葉は北海道毎日新聞の社員であった関係から、阿部宇之八の援助により印刷を北海道毎日新聞の附属工場で行なっていた。そのころの小樽は前述のようにせっかく誕生した北門新報が札幌に移って新聞空白の状態にあった。ここに着目した阿部は阿由葉にすすめて北海民燈を小樽に移した。それは創刊の翌年六月のことである。このとき民燈の経営に当たったのは北海道毎日新聞の編集助手をかねながら同紙の編集長であった上田重良であった。このほか北海道毎日新聞から会計係の矢上以久三郎も出向した。当時の北海民燈は負債をひきうけていた阿部の所有となっていたが、上田はこれを経営しやがて小樽の山田吉兵衛(北海新聞の創立者)、渡辺兵四郎、高橋直治ら有力者の協力を得て集めた資金一千円を投入、同年十一月「小樽新聞」と改題のうえ日刊とした。これにより経営が好転したので上田は阿部から一切の権利をゆずりうけて小樽新聞を自立させ、その育成をはかった。

 上田は岩手県盛岡の出身。東京専門学校卒業後、東京で新聞界に入り、「大分新聞」の発刊にさいし主筆として招かれ、のち北海道毎日新聞に転じたものである。
(「北海道新聞三十年史」より)

※ 以下、「北海道新聞三十年史」からの引用を続けます。直接に「坂牛祐直(天民)」に関する記述があるわけではありませんが、「小樽新聞」の消長は天民研究の際の必須事項でありますから…

 
▼ 小樽新聞Aa
  あらや   ++ ..2010/04/26(月) 17:16  No.195
  小樽新聞 上田重良によって改題のころ四べージ建てであったが、明治二十八年から三十一年にかけ三回にわたって刷新をこころみ、三十二年五月から六ぺージ建てに紙幅をひろげ、道内各地に支局をおき、四十年九月には拡張した工場に新鋭輪転機を設備して八べージ建てとした。ついで四十一年、大正二年の二回にわたって新活字を採用、支社、支局の拡充をはかり、大正二年九月、創立二十周年記念号、同四年五月、七千号の記念号を出した。
 創立いらい敏腕をふるった上田重良は大正四年二月死去したが、同七年八月、組織を資本金三十万円の株式会社に改め、社長には重良の未亡人上田寿久が就任した。
 創業いらい上田を助けて経営につとめた矢上以久三郎ほか北海民燈のころ寄稿したのを縁に入社した平野文安らが女性社長を補佐して社業発展に尽力した結果、しだいに紙勢を伸ばし、これにともない通信施設も整備して着々紙面に改善を加えたため北海タイムス、函館毎日新聞とならんで北海道の三大紙といわれるようになり、やがて函館毎日新聞がその勢力を失なってからは北海タイムスに激しく迫って対立した。
 その競争ぶりは、たとえば北海タイムスが日本電報通信社から内外ニュースの供給を受けるや直ちに帝国通信社と契約したのをはじめ新活字の採用、段数、建てぺージの拡大、夕刊発行など、つねに期を同じにするか、そのあとを追って対抗し、両紙の報道戦ははなぱなしいものがあった。事業面でも北海タイムスの全道少年野球大会に対抗して全道実業野球大会を主催し、北海タイムスが定期航空を開くや小樽新聞もまた小樽−札幌、札幌−旭川間に定期航空路を開設するなど、そのほか映画製作や巡回映写、体育競技、娯楽行事などでことごとく対立して闘った。この結果、販売部数も伸びて北海タイムスと伯仲するまでに迫ったが、大正八年四月、社内の紛争から退社した一派が既存の「小樽商業新報」を改題した「新小樽」にたてこもったことなどがわざわいして、一時、広告掲載量では北海タイムスをしのぎ、発行部数もほぼ互角といわれていたのが、大正末期には激減して四万ほどまでに落ちこんでしまった。これを盛り返すため十四年十月、港町十六番地の社屋を拡張して第二工場を新設し、高速度輪転機を施設して紙勢挽回につとめ着々その成績をあげた。
 政治的には北海タイムスが厳正中立を宣言したとはいえ、同社の首脳が政友会に属していたため、道民はなお政友系と見なし、小樽新聞をもってその反対派と見ていた。

(※ この文章はAbに直接続きます)

 
▼ 小樽新聞Ab
  あらや   ++ ..2010/04/26(月) 17:18  No.196
   昭和に入ってからも北海タイムス、小樽新聞の競争はいよいよ激しく、満州事変発生とともに大陸戦線への従軍記者派遣、陸上競技北海道記録章制定、北海道樺太年鑑の刊行など各分野にわたって事業を企てた。十二年八月、地崎宇三郎が取締役として入社し、資本金を五十二万円に増額のうえ、役員陣を強化して五十嵐康二が専務取締役に就任、その翌年十月には地崎宇三郎が空席の社長に就任するや、経営会社を新しく起こして積極経営方針をとった。これにともない十一月、釧路新聞社長遠藤清一を専務取締役に迎えるとともに釧路新聞を経営傘下におさめて東北海道に勢力を伸ばし、また、北海道経済興信所およびオールトピック社を支配下に、十四年には傍系の北方農業社を経営し、ついで十五年九月、網走新報を姉妹紙として道北方面にも勢力をひろげた。
 十七年三月にはさらに読売新聞社からの資本導入をはかって、同社から出向の長沼欽一が取締役編集局長に、大江原矯が監査役に就任し、題字下に「読売報知姉妹紙」と記して読売新聞の通信網と機能を通じて報道体制を強化した。これら編集ならびに経営の刷新は発行部数の上昇となって現われ、印刷施設も高速度輪転機一合を増設して三台とし、わが国新聞界の有力な地方紙としてその声価を高めた。
「わが社五十年の歴史は、新聞永劫の紙令に考うれば、必ずしも永しとしないが、幾多の思い出は読者とともに尽きないものがあり、懐しき語り草の数々は尠しとしない。しかし、時局は徒らなる追憶と感慨に耽るを許さず、一切の懐古的情想を払拭し、利害情実を超越して勇躍新発足につかねばならないのである。」
と、終刊の辞を読者に告げ、一万六千七百二十五号をもって輪転機はとまったが、朝刊五版建て、夕刊三版建て、小樽市内版のほか、札幌版、上川留萌宗谷版、石狩空知版、東北版、道南版、樺太版、綜合版を発行、その発行部数は九万部に達していた。
(「北海道新聞三十年史」より)

 
▼ 北海道大百科事典
  あらや   ++ ..2010/05/01(土) 07:40  No.197
  小樽新聞 おたるしんぶん
1893年(明治26)5月、北海道毎日新聞の傍系政治雑誌として札幌で創刊した北海民燈(月2回発行)を、上田重良が経営してから小型日刊紙に改めて本社を小樽へ移し、翌年12月に小樽新聞と改題した。当時は小樽で最初の日刊紙北門新報が札幌に本拠を移し、その後、木村秀実の北辰日報、村上祐の新北門が発行されたが、いずれも短期間で廃刊。木村昇太郎の創刊した小樽商業新報があり、永い社歴を保ったが、小樽新聞は積極経営で地方有力紙となった。小樽新聞がとくに力を入れたのは経済記事で、1898年から商況欄の付録や水産週報を出し、翌年5月から本紙を6ページ建てに広げ、1926年(大正15)6月から朝夕刊を発行。1907年(明治40)北海道で初めて輪転印刷機を入れ1927年(昭和2)ドイツ製高速輪転機を導入した。社業発展には上田社長の経営意欲と、創刊当初から在社した坂牛祐直、平野文安、加納観濤、大正期には今里静山、西島元甫らの記者、営業の矢上以久三郎らの活躍が寄与している。上田の没後、未亡人寿久が後を継いだが1929年、社内分裂を起こしたことから業績が衰え、建て直しに山本厚三の一族、ついで地崎宇三郎が1937年から再建に加わり、地崎社長のもとで小樽新聞経営株式会社の経営に移った。経営の積極方針は変わらず1938年に釧路新聞を、2年後には網走新報を傍系紙とし、1942年には読売新聞と提携している。社歴の系譜では、北海タイムスの身内であったのに終始ライバル意識を燃やし、とくに支持政党で色分けを鮮明にした。 (佐藤忠雄)

※ 北海道大百科事典(北海道新聞社,1981)

 
▼ 沢田天峯/啄木散華
  あらや   ++ ..2010/05/01(土) 07:42  No.198
   七.洲崎町の下宿屋
 例年二月は北海道にとって一番交通事故の多い月である。北西の風が吹きつのり、之に雪が加はると忽ち猛烈な大吹雪となり、天地間たゞ雪の塊まりの乱舞に任かせ、鉄道線路には時ならぬ雪の小山を築き、雪崩が落ちて列車の運行を停めて了ふことは珍らしくなかった。除雪人夫を繰出し、ラッセル車を突進させてもダイヤの狂ひが容易に調節されず自然沿線の各駅には雑穀、木材、石炭と云ふやうな大量の滞貨が山と積まれて、荷主側から苦情が出る、商人側から商機を逸した責任を鉄道当局に持ち込むと云ふ騒ぎを、年々歳々繰返してゐた其頃である。
 鉄道庁(鉄道省の前々身)では此道民の反感を緩和する為め、北海道管理局に命じて鉄道冬季操業視察団を組織させ、道内の幹線全部を一巡して、鉄道側の苦心の実況を見せてやらうとの企が実行され、二月十七日から約十日間に互って可なり賛沢な鉄道旅行を試みたことがあった。団員は北海道庁の商工係と交通係、函館、小樽、札幌三市の商工会議所役員、それに新聞雑誌記者を加へて十数名、私も「小樽日報」を代表して一行の末席に列ってゐた。主人側は管理局長の野村弥三郎氏を筆頭に関係各課長、技師連で、其中には、現満鉄副総裁の大村卓一氏も一工務課長として、素朴な風采で参加してゐたのは面白かった。
 一行の釧路に入ったのは明治四十一年二月二十日の夕暮であった。…

以下、「おたるの青空」を参照ください。沢田は一行の宿には泊まらず、啄木の下宿を訪ねて行くのですが、啄木はおらず、朝帰りしてきた啄木を目撃する…という、あの有名な逸話につながります。





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