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▼ 蟹工船興亡史 [RES]
  宇佐美 昇三   ++ ..2013/11/02(土) 19:07  No.243
  蟹工船興亡史の著者です。
この本、献本の計画があります。
小樽市立図書館とどちらが
有効に活用されるか、お教えください。


▼ 函館市文学館 [RES]
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 12:05  No.225
  現在、函館市文学館にて、企画展「石川啄木遺品展〜百回忌によせて〜」開催中。
http://www.zaidan-hakodate.com/bungakukan/

 
▼ 展示資料一覧
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 12:08  No.226
  ●「爾藝多麻 一の巻」明治三十四年九月号
(盛岡中学校時代の回覧雑誌第一号)(「秋草」は現在発見されている中では啄木の最初の短歌。)
●「小樽のかたみ」
(啄木直筆の感想文「小樽日報と予」と啄木が小樽日報紙上に書いた三面記事の切り抜き、及び退社広告の記事。)
●「朝日歌壇第一輯」(啄木が選者を務めた「朝日歌壇」のスクラップノート。直筆の前書きがある。)
● 字音仮字便覧
● Swinton's Fifth reader and Speaker. Blakeman and co.
● Swinton's Fifth reader
● Lehruch der Deutschen Sprache (ドイツ語会話読本)
● Old favaourite English songs, Etc 2 (楽譜)
● Mother earth (大逆事件を扱ったアメリカの雑誌)
● 新独和辞典
●「葬列・林中書・一握の砂」
(諸雑誌に収録された三つの作品のスクラップを啄木自身の手で合綴したもの.)
●〔未だ世に出でざる石川啄木の歌・全〕
(宮崎郁雨らによりハトロン紙の片面に貼付された新聞掲載短歌のスクラップ八十三枚)
● 国語字音仮名遣便覧
● 新訳英和辞典
●「ローマ字世界」 (ローマ字で書かれた雑誌)
● 改正東京市街電車明細地図
● 戸籍謄本
(明治四十三年、東京転籍の際に渋民村から取り寄せ、大学病院の施療を受ける目的で使われた)
●〔真一葬儀収支帳〕 (節子夫人が認めたもの)
●〔金銭出納簿〕 (節子夫人により、啄木の死の翌日まで認められたもの)
● 石川節子肖像 (木村捷司画)
● 宮崎郁雨肖像 (木村捷司画)
● 石川啄木肖像 (齋藤咀華画)

 
▼ 小樽のかたみ(従来)
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:10  No.237
  私たちが知ってる(と思っていた)「小樽のかたみ」は、
http://www.swan2001.jp/takuimg/takup27.jpg
でした。これは学研の「現代日本文学アルバム・第4巻/石川啄木」からとった画像ですが、他の文学アルバムでも同様です。どの本でも同じ画像が「小樽のかたみ」については使われています。この一冊に、筑摩版全集に載せられた順に、「小樽日報と予」〜小樽日報記事の切り抜き〜退社広告記事が配置されていると理解していたのですが…
ただ、そうだとすると、この写真はちょっと不思議な写真なんですね。どうして「小樽日報と予」だけ取りだすことができるのだろう。一冊のスクラップ帳に、なにか挟み込むような形で「小樽日報と予」は付けられているのだろうか?とか。
あるいは、表紙と思われる左側の部分なんですが、この上下の縁にある三角の黒ずみが、なにか図書館で使うパンフレット・バインダーを連想させるのです。もしかしたら、これは「小樽のかたみ」の表紙ではなく、函館の図書館なり啄木会なりが本体保存のために付けたカバーなのではないかとも考えました。ちょうど本体の「小樽日報と予」のページを開いて、その脇に、これが「小樽のかたみ」であることを証明するためにカバー部分を添えたのだろうか?とか。(それにしては、「カバー」の字体は啄木の字体そのものですから、やはりこれは「表紙」なのかなぁ?とか)

 
▼ 小樽のかたみ(今回)
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:13  No.238
  「小樽のかたみ」にはいろんな想いがあります。おそらく実物を見る機会はこれが最初で最後だと思いましたから早く函館には行きたかったです。(東京でなくて、よかった…)
で、これが、「小樽のかたみ」表紙。
http://www.swan2001.jp/takuimg3/katamimosha.jpg
小汚い絵で申し訳ない。なにせ、館内撮影禁止。文学館の職員でさえ資料に触ることはもちろん、レプリカ作成でさえそうそうホイホイとできるものではないらしいです。ガラスケース越しに拙い模写をするのが精一杯でした。

 
▼ 小樽のかたみ(一期一会)
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:15  No.239
  学芸員の竹原さんから受けた解説、及び、翌日いただいた電話による補足説明を総合すると次のようになります。
まず、私たちが「表紙」だと思っていた部分、あれは「標題紙」でした。本の造りでいうと、表紙を捲ると見返し。その見返しをさらに捲ると本の題名や著者名が書いてあるページが出てきますね。それが「標題紙」です。だから、「小樽のかたみ」というタイトルの脇に「明治四十年神無月から師走まで」という野暮ったい副題も入っていたのでした。そこを捲ると、「小樽日報と予」、そして日報記事の切り抜きと続いて行きます。(桜庭チカの描いたカットの配置は今回もわからず…)
写真の右側にあった「小樽日報と予」はレプリカと思われます。函館市文学館も同じようなやり方をしていました。(実物「小樽のかたみ」の横に「小樽日報と予」レプリカを展示)
表紙は、全体にクリーム色の地に、墨字で「小樽のかたみ」。碁盤の目のカットが背後にかかり、上部に碁石の絵。下部に扇子(芭蕉扇?)のようなものと棒(杖?)のようなもののカット。碁盤と碁石の絵は裏表紙まで続いているそうです。これらの絵、たとえば囲碁をやる人ならなんなく知っているようなものなのかもしれませんが。学がなくて、ごめん。
啄木にこのような絵心があるとは思えませんから、あるいは、これは桜庭チカの絵とも考えたのですが、なにか画風が全然ちがう。竹原さんの話では、「小樽のかたみ」は、一冊の本に綴じ合わせた後、その上から包み込むように例の碁盤の紙をかけて造ったように見えるということなので、おそらくは、当時の小樽に出回っていた何かの包装紙とか囲碁の雑誌などから切り取った紙で綺麗な表紙を仕立てたのでしょう。時間的に、当時の啄木に、桜庭チカに連絡をとって表紙の絵を描いてもらうなんて余裕はなかったと思いますし。

 
▼ 戸籍謄本
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:24  No.240
  今回の展示の中で、予期せぬ衝撃だったのは「戸籍謄本」でした。本当に吃驚。啄木のプライバシーもあるのでここではこれ以上書けませんが(全集年譜には書いてある)、長年不思議に思い続けてきた母カツや妹光子たちと啄木との動きかたがなんとなく理解できたようにも感じました。ぜひ、函館に行ってご自分の目で確かめてください。
玉石混淆ともいえる今回の「啄木遺品展」。啄木研究上ではあまり重きをおかれていない「小樽のかたみ」だからこそ、函館啄木会もそんなに意識せずひょっと出してきたものなのでしょうか。(戸籍謄本も…) 何度も繰り返して申し訳ないが、生きている内に「小樽のかたみ」をこの目で見ることができて幸運でした。

 
▼ 啄木と遺産
  あらや   ++ ..2012/09/24(月) 14:15  No.242
  没後百年にあたる今年、北海道新聞は啄木に関する特集を毎月最終の月曜日に行っています。その8月の回、「啄木と遺産」という特集で、あの「小樽のかたみ」が登場しました。これです。
http://www.swan2001.jp/takuimg/takup92.jpg
さすがは北海道新聞。けっこうなクリーンヒットだと思います。(なんとか、中の記事の配列も見たいなぁ。桜庭チカのカットも本物が見たいなぁ…)

でも、難をいえば、どうして今回も「小樽日報と予」を重ねて写したんだろう。この「小樽日報と予」がレプリカであることをきちんと知らせないと、昔の文学アルバムが生んだ誤解・疑問をまた繰り返すだけだと思います。ちょっと「小樽のかたみ」に対するセンスが足りないですね。

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▼ 鶴澤糸鳳軒 [RES]
  あらや   ++ ..2009/10/10(土) 10:27  No.186
  鶴澤糸鳳軒のこと シズ 司書室BBS 2009/10/05(月) 02:10 No.165
――――――――――――――――――――
義太夫の鶴澤糸鳳軒の事を調べています
何か手がかりになる事はありますか

 
▼ 鶴沢絲鳳軒
  あらや   ++ ..2012/09/24(月) 12:35  No.241
  鶴沢絲鳳軒 (1833-1907年)
義太夫、名士に手ほどき
 三味線の名手。本名・鈴木五郎兵衛、芸名・鶴沢徳太郎。大阪に生まれ、十六歳のころから大阪文楽座付きの三味線師匠・鶴沢清六のもとで芸を磨いた。
 父は幕末に小樽に来て、貸座敷「大阪屋」を営む傍ら、芝居興行を行い、浄瑠璃を教えた。絲鳳軒は、父とともに小樽に住みつき、義太夫を教えた。
 絲鳳軒のもとには小樽や札幌から名士が集まり、おさらい会などは大変なにぎわいだったという。料亭接待がすたれお座敷芸に親しむ社長さんも少なくなったが、昭和の半ぱ過ぎまで、芸事は男のたしなみだった。
 北海道史人名辞典に「性温厚にして施与を好み、常に清貧に安んじていた」とある。没後、門弟たちは大阪文楽座一座とともに小樽で追善興行を行い、その益金で龍徳寺に墓碑を建てた。(北海道新聞 2007年 小樽・後志版コラム「人物散歩」)

「人物散歩」に入っていたんですね。自分で切り抜いていて、忘れているなんてお恥ずかしい。


▼ 北海道新聞に見る「一握の砂」百年 [RES]
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:52  No.227
   昨年は啄木の「一握の砂」が刊行されてから百年.名だたる研究者、ファンからのコメントがマスコミ紙上を賑わせました。啄木も在職していた釧路新聞。それもルーツに持つ北海道新聞記事に、啄木の北海道を探ります。
http://www.swan2001.jp/takuimg3/doshin201012.jpg

 
▼ @−a 創作に色香 人間性深く
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:54  No.228
   まずは、2010年11月19日夕刊見開きの大特集。

 短歌、詩、評論など、26年と2ヶ月の短い生涯の中で生みだした作品が今も多くの人の心をとらえる石川啄木。その才能の開花は、1年弱に及んだ「北海道漂泊」の日々抜きには考えられない。その象徴ともいえる珠玉の歌集「一握の砂」は、12月1日で刊行からちょうど100年になる。啄木は北海道で何を得たのか。歌集を手がかりに、天才歌人と北海道のかかわりにあらためて光を当ててみた。(黒川伸一)

 北海道体験が色濃くにじむ「一握の砂」。国際啄木学会前会長・近藤典彦氏のコメント。

 啄木は北海道に渡って初めて本格的な勤め人になった。内地とは全く違う北海道の自然とそこに懸命に生きる人々の姿は生活者啄木の胸を打った。いわば北海道で『人間発見』をした。それが後に、多くの名歌を生み出させることになる。

 片面は「創作に色香」として、北海道定番の三人の女性、橘智恵子、小奴、梅川操をとりあげている。橘智恵子について、函館の研究家・桜井健治氏は、

 代用教員の啄木に対し、智恵子は訓導(正教員)。啄木の片思いだったが、偉ぶらずに接したその清楚さに対する思い入れは相当なものだった。

 
▼ @−b 創作に色香 人間性深く
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:55  No.229
   梅川操について、釧路啄木会会長・北畠立朴氏は、

 「一握の砂」では、梅川関連の歌は2、3首だが、北畠さんによると釧路新聞紙上で「一輪の赤き薔薇(そうび)の花を見て火の息すなる脣(くち)をこそ思へ」など9首が掲載。啄木が釧路を素材にした小説「病院の窓」で、梅川がモデルの看護師を美化したり、釧路を去る前に、大切なかるたを梅川に託したことなどをとらえ、「彼女は当時としては珍しい進歩的な女性。啄木はそんなところにひかれたと思う」と指摘する。

 梅川操再評価の気運。「啄木を愛した女たち」(太陽)を6月に刊行した札幌の放送作家・佐々木信恵氏も、釧路のふたりの女性について、

 橘智恵子には歌がたくさん残されたが、実際は表面的な付き合いしかできなかった。しかし釧路時代のふたりとは短時間だったが、互いに内面に深く入った。啄木は小奴には優しさ、梅川には情熱を感じたと思う。特に梅川から燃え上がるような恋心を見せられ、逆に新鮮に映ったのでは。

 記事で、三人の女性を詠った啄木の歌のカウントが、近藤、桜井、北畠の三氏でそれぞれ異なっていることが報告されている。大変興味深い。

 
▼ A 郁雨連載「一握の砂」書評 一冊に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:56  No.230
   (2010年12月2日)

 石川啄木(1886〜1912年)の親友で、後に義弟になった宮崎郁雨(1885〜1962年、函館)が、啄木の第1歌集「一握の砂」刊行をうけて、函館日日新聞紙上で長期連載した同歌集に対する書評と啄木の返信書簡を採録した、「なみだは重きものにしあるかな−啄木と郁雨」が東京・桜出版から出版された。啄木研究者の遊座昭吾さん=盛岡市=が、「一握の砂」刊行100年の1日に合わせて刊行した。
 (中略)
 遊座さんは、函館市中央図書館に保存されている同新聞をもとに、こうした掲載記事を再現し、啄木と郁雨の強い友情の交換を浮き彫りにした。「100年間、図書館に眠っていた最初の『一握の砂』書評のみずみずしさを感じてほしい」と話す。

 
▼ B−a 啄木献辞本 今も岩見沢に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:58  No.231
   (2010年12月10日 夕刊)

 石川啄木が北海道体験を経て生み出した第1歌集「一握の砂」(全551首)が刊行されて100年がたった。刊行時、啄木は何冊かの献本をしたとみられるが、とりわけ思いを込めて贈った一冊が、函館区立弥生尋常小時代の同僚教諭、橘智恵子の嫁ぎ先、岩見沢市北村の北村牧場で今も大切に受け継がれていることを知る人は少ない。また、森鴎外への献辞入りの献本も新たに発見された。珠玉の歌集の献本については全容が分かっておらず、研究者の関心が集まっている。(黒川伸一)

 北村家に嫁いだとも知らず、札幌の智恵子の実家に贈られた一冊について、

 智恵子は、贈られた「一握の砂」の裏表紙裏に、この(啄木の)はがきを張り付け、生涯秘蔵した。智恵子の死後にその存在が分かり、現在は、北村牧場で智恵子の長男(故人)の妻、北村千寿子さん(91)が保管している。同牧場は「今後もきちんとした形で残していきたい」(経営者の中曽根宏さん)という。

 
▼ B−b 啄木献辞本 今も岩見沢に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:59  No.232
   記事には北村牧場本の写真もついており、キャプションに、

 北村牧場本の裏表紙裏に張り付けられた啄木からのはがき。智恵子が家族に見られないよう、厚紙を張った跡も残る

 一方、森鴎外に贈られた一冊について、近藤典彦氏は、

 啄木は鴎外にその才能を買われて愛されていたが、あることから啄木側にわだかまりが生じたとされてきた。しかし、この献辞の確認は、鴎外への敬愛が生涯続いていたことを示しており、啄木と鴎外の関係全体をとらえ直す上で画期的な資料

 
▼ C 「啄木は思想家」
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:01  No.233
   (2010年12月14日 小樽後志欄)

【余市】 国際啄木学会前会長の近藤典彦さん(71)=旭川市出身、神奈川県在住=が町中央公民館和室で「石川啄木の偉大さ」と題して講演し、1910年の大逆事件や韓国併合を著作で取り上げた啄木の思想家としての一面を語った。
 北星余市高校の教師経験がある近藤さんは啄木研究の第一人者。5日の講演で、「啄木は歌を作っただけの人ではない。詩人であり、小説家であり、書家でもある。さらにジャーナリストであり、優れた思想家であった」と指摘。(後略)

 
▼ D 校正の仕事に悩んだ啄木
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:02  No.234
   (2010年12月18日)

 歌集「一握の砂」が刊行100年を迎えた石川啄木。彼は北海道新聞の源流の一つである札幌の新聞社「北門新報」に約2週間、校正係として在籍していました。
 愛好者でつくる「小樽啄木会」の水口忠会長は「時代を読む先見性があり、3行書きの短歌は当時は画期的。天才だと思います」と話します。同じような仕事をする私も誇らしい気になります。
ただし、彼は校正の仕事を快く思ってはいなかったようです。「不知、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞に拙く眼のみ光れる、よく此札幌の風物と調和するや否や」(秋風記、石川啄木全集第4巻、筑摩書房)。
 晩年の「悲しき玩具」にはこう詠んでいます。
  みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ、
  誤植ひろへり。
  今朝のかなしみ。
 故郷・岩手の新聞を読み、間違いを見つけてむなしさを感じる啄木の姿がありました。水口さんは「道内にいたころも東京に出て文学で活躍したいという願望(東京病)がありました。想像ですが校正と文学とで乖離を感じたのでしょう」と推し量ります。(後略)

 
▼ E 啄木と郁雨 山下多恵子著
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:04  No.235
   (2010年12月19日 書評)

 今年は石川啄木の歌集「一握の砂」が刊行されてから100年にあたる。いまもなお多くの人びとに読み継がれている国民的歌集だが、そのなかで啄木が献辞をささげた人物の一人が宮崎郁雨だ。啄木を物心両面で支え続けた函館時代の文学仲間である。
 本書は2人の友情を軸に、文学的視点からそれぞれの生涯を描き出した異色の評伝。著者は新潟県在住の評論家で国際啄木学会理事。
 郁雨は1885年(明治18年)、新潟県生まれ。4歳のとき函館に移り、やがて父親は、みそ醸造所を起こし財を成した。啄木が1907年(明治40年)に函館へ渡って来たことで2人の交流が始まるが、啄木は札幌、小樽、釧路と道内を転々とした後、08年には妻や母などを函館に置いて上京する。以後、残された家族の生活を一手に引き受けたのが郁雨だった。
 文学という大きな夢と才能を持ちながら、生活という切実な問題を抱えて身動きができなくなっている友人を支え続けた郁雨。彼に厚い信頼を寄せた啄木。本書はこれまで見過ごされがちだった郁雨に関する資料も丹念に読み解き、2人の交流と郁雨の存在が啄木の文学に与えた影響を、あらためて明らかにしている。
 本書には、「啄木と雨情」と題された評論も収録され、札幌、小樽時代の啄木と、そこで深く交流した、後の童謡作家・野口雨情との関係を論じる。郁雨を論じた部分と併せ、啄木の北海道時代が新たな視点からとらえ直され、興味深い。 (中舘寛隆=編集者)

 
▼ F 啄木の歌碑 武井静夫
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:05  No.236
   (2010年12月22日夕刊 コラム「えぞふじ」)

 石川啄木の歌碑が、倶知安町に2基ある。倶知安駅前公園に建っている
  真夜中の/倶知安驛に/下りゆきし/女の鬢の/古き痍あと
と、同町旭が丘公園中央広場に建立されている
  馬鈴薯の/花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を/好きたまふらむ
とである。
 啄木が函館から小樽に行く列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治40年(1907年)9月14日の午前1時すぎである。21歳の啄木は、妻と子を函館に置き、北門新報に入社のため単身札幌に向かっていた。(中略) 倶知安は開墾がはじまって15年、街には電灯もともっていなかった。(後略)

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▼ 京極空想碑 [RES]
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:04  No.211
  なんてことはない小樽の寿司料理店である。けれども、その店頭に「明治40年9月、石川啄木一家、ここに住む」の看板が建てられれば、事態は大きく変わる。この店は、啄木ファンが小樽をめぐる際の聖地になるからだ。文学散歩の昼食は、ここ。啄木忌の講演が終わったら、打ち上げは、ここ。

湧学館で「後志の文学」講座を開いているが、第3回「胆振線」〜第4回「北の沢」を終えて、京極町にはこんなに町オリジナルの素材があるのに活かさないのはもったいない…と思うようになりました。以下、京極の空想碑です。

 
▼ @沼田流人文学碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:09  No.212
  【碑文】
 誰も彼も、揉みくちゃになった襤褸のように疲れきっていた。
 あの、食物を盗まれた老人は、沈んで行く夕陽に掌を合せて礼拝し、側に立っていた同僚にそっと囁いた。
『日が暮れる………。兄弟………。』
 彼は、小児のように嬉しげに、微笑していた。意地悪い蝎は、それを見逃さなかった。
『老毫纂奴……仕事さえ止めれば、歓んであがる!』
不運な老人は、太陽に感謝した罰で、その額を一つ殴り飛ばされた。
(沼田流人「地獄」)

【案内板】 沼田流人・ぬまたるじん。
 明治31年(1898)6・20−昭和39年(1964)11・19。小説家。岩内郡老古美村(現・共和町)に生まれる。はじめ山本一郎といい、明治38年に養子となって沼田明三となる。大正10年2月の「種蒔く人」(秋田版)に小説「三人の乞食」が掲載されたが、発売禁止になったため本人はその事実を知らなかったという。倶知安−京極間の軽便鉄道「京極線」の敷設工事がはじまったのば大正6年からだが、倶知安に居住していた流人は現在の京極町北岡に集められた土工たちの悲惨な労働を見聞し、それをもとに長篇小説「血の伸き」(叢文閣、大12)を刊行した。発売禁止になったが、同じ素材によったのが同15年9月の「改造」に載った「地獄」である。ついで昭和5年には「監獄部屋」(金星堂)を上梓した。流人は倶知安の地で労働運動の協力者として地味な生活を送ったが、戦後の23年5月から倶知安高校で書道の講師を勤め、その地で没した。

 
▼ 解説1
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:10  No.213
  この碑の場所は「軽川(がるがわ)トンネル」跡地しかないでしょう。それも、トンネルの倶知安側。タコ部屋のあった場所。できるならば、今は塞がれている軽川トンネルを開けて中を通れるようにして、倶知安側に「沼田流人」碑。そして、京極側に、本山悦恵さんの「雪灯り」碑か、あるいは小林多喜二の「東倶知安行」碑がいいのですが…(多喜二碑については、他の案もあります)

 
▼ A本山悦恵「雪灯り」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:11  No.214
  【碑文】
 やがてトンネルに入った。窓の隙間や入口から容赦なく煙が入り込み、旦那は襟巻で顔を覆っている。ほどよい振動でウトウトしていた鈴は咳き込み、旦那の膝に顔を埋めていた。
 信治郎はその苦し気な様子を見て、腰の手拭いを取り、鈴の顔に当ててやった。
 「あんた、なかなか気が利くね。わしはどうも気が回らん」
(本山悦恵「雪灯り」)

【解説】 本山悦恵・もとやまえつえ (調査中)

 
▼ B小林多喜二「東倶知安行」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:12  No.215
  【碑文】
 夜空が高く、青く澄んでいた。マツカリヌプリ裾野の空気は硝子張りのように凍えていた。空一杯の星が氷粒のような鋭い光を放っていた。晴れ渡った野天の夜空が如何にも大きく、広かった。その感じは小樽などでは決して無かった。
――底から冷たかった。
 演説会が終って、雪の狭い一本道を皆が一列に帰って行った。道に掘らさっている馬の蹄や馬橇の窪みに足を落さないように、私達も汽車に乗るために、その列に入っていた。雪の、寒気(しば)れた夜道は皆の足駄や下駄の歯の下でギュン/\と鳴った。
(小林多喜二「東倶知安行」)

 
▼ 解説2
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:13  No.216
  軽川トンネル跡・京極側に、「雪灯り」碑か、「東倶知安行」碑を…と思うのは、どちらも当時の「京極線」の「京極駅」風景を描いているからですが、当の京極駅跡地にはでっかい工場が建ってしまっているので、あえてそこに碑を建てるよりは、軽川トンネルに建てた方が小説の雰囲気に適っているかなと思ったのです。トンネル内を通って、京極線跡をずーっと「ふきだし湧水公園」あたりまで遊歩道でつないでしまえば、けっこう良い観光スポットになるのではないでしょうか。

 
▼ C小林多喜二「東倶知安」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:14  No.217
  【碑文】
 ――お前はレーニンのように「あがめられたい」と思っているのだ。
 ――お前はたゞ無産階級運動の「大立物」になりたいためばかりに一生ケン命なのだ。
 ――お前は一生の間こうして一生ケン命になって、自分がそのまゝ埋もれ、しかもこの運動が一寸目鼻もわからないとしたら、とっくの昔に裏切ってしまっていたのだ。
 ――お前は中央に出て行って「認め」られたいためにしている。この運動が東京だけで出来るとでも思っているように。
 そうでないとは云わせない。お前の心の何処かゞそればかを望んでいたのだ。
 私は白状しよう。――私は、そうだった!
(小林多喜二「東倶知安行」)

【解説】 小林多喜二・こばやしたきじ
 明治36年(1903)10・13−昭和8年(1933)2・20。小説家。秋田県で没落農家の次男として生まれた。明治40年に一家は伯父を頼って小樽に移住し、大正5年から庁立小樽商業学校に学び、同10年に小樽高等商業学校に進んだ。一級下に伊藤整がいた。同13年北海道拓殖銀行に勤める傍ら同人雑誌「クラルテ」を主宰し、文学運動と共にやがて労働運動にも身を置く。この時期に不幸な境遇の田口タキを識った。「一九二八年三月十五日」で高い評価を得たあと「東倶知安行」「蟹工船」「不在地主」を続々中央の文芸雑誌に発表して反響を呼ぶ。銀行を解雇された多喜二は昭和5年に上京し、精力的に創作活動と共産党活動を続けたが、地下連絡中に逮捕されその日のうちに拷問によって虐殺された。行年30歳。
 「東倶知安行」には、昭和3年の第一回総選挙において北海道一区に労農党より出馬する山本懸蔵の応援演説のため当時の東倶知安村(現・京極町)に駆けつけた小林多喜二や演説会場となった光寿寺(現存・京極町字京極800)が描かれている。また、開通から十年が経過した「京極線」の様子が描かれていることでも貴重な作品となっている。

 
▼ 解説3
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:16  No.218
  小林多喜二「東倶知安行」碑にふさわしい場所が、もうひとつ。それは「山懸」(小説では「島正」)の演説会場となった「光寿寺」です。現在も「光寿寺」としてそのままの姿で残っているこの場所の意味を大切にしたい。碑文に、「東倶知安行」からあえてこの部分をとりだしたのは、通俗的な「小林多喜二」解釈を脱したいから。「東倶知安行」がなぜ私たちの心を打つのか。それは、小説のラストにこの数行があるからだと信じて疑いません。小樽でもなく、東京でもなく、京極に建つべき碑であると思います。

 
▼ D大町桂月「脇方」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:27  No.219
  【碑文】
独向白雲深処遊
丹楓黄桂満山秋
水枯却喜不長舌
賎々渓聲落枕頭
東倶知安鉄山にて
      桂月作

【案内文】 大町桂月・おおまちけいげつ
 明治2年(1869)1・24−大正14年(1925)6・10。高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。雅号の「桂浜月下漁郎」はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年は遠く朝鮮、旧満州にまで足を延ばしている。桂月は北海道層雲峡の名付け親でもある。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。碑文は、大正十年八月の大雪山登山の帰路、日鉄鉱業北海道工業所の所長をしていた甥の大町政利(鉄石山人)を訪ねて東倶知安村脇方に泊まった際、求めに応じた桂月の残した漢詩。深まりゆく脇方の秋を詠っている。

 
▼ 解説4
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:29  No.220
  教養がないので、大町桂月の漢詩や書がどれほどのものなのか、よくわからない。ただ、京極町で桂月の碑を建てるというのならば、碑文はこの詩以外にはないだろう。場所も脇方以外には考えられない。桂月碑は、大雪山や南アルプス山頂に建てられるなど、異色であり、また、それが故に有名でもある碑が多い。現在、脇方には新日鉄倶知安鉱山碑がすでに建てられている関係で、羊蹄山山頂(京極町)へ桂月碑を持ってくるというアイデア(当然ながら桂月は羊蹄山にも登っている)もなくはないが、まあ順当に考えて、脇方でしょう。折衷案として、脇方から羊蹄山がくっきり望めるようなロケーションがよいのではないでしょうか。

 
▼ E「わっかたさっぷ」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:31  No.221
  【碑文】
私は大正十四年九月、
倶知安鉱山の再開した年に輪西製鉄所から脇方へ来まして、
爾来、昭和二十六年三月までの二十七年間、
会社名は、(株)日本製鋼所、輪西製鉄(株)、輪西鉱山(株)、
日鉄鉱業(株)と変わりました。
また、その度に経営者も変わったのですが、
私は脇方鉱山のみに勤務していましたので、
いわば井の中の蛙と言うところでしょう。
顧みるに脇方は、
ワッカタサップ時代の明治四十一年四月、集団入植以来六十四年。

 
▼ 解説5
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:32  No.222
  出典は、佐々木六郎著「わっかたさっぷ」。自費出版の本。その冒頭の文章です。
昔、京極町脇方にあった新日鉄倶知安鉱山に二十六年間奉職した佐々木六郎氏の回想録。佐々木氏の著作なのですが、本の中に、別の著者「鉄石山人」こと大町政利氏(←解説4)の随筆集「脇方の思い出」が120頁にわたって入ってくる…という不思議な造りの本。
現在、脇方には新日鉄倶知安鉱山碑がすでに建てられているのですが、なにか、あの碑は素っ気ない。もっと「鉄石山人/わっかたさっぷ」碑といったようにコンセプトを揃えて(案内板も添えて)、胆振線・脇方駅碑なんかもできたら添えて、ここに「脇方」という町があった…という形をバーンと出した方がよいのではないか。林芙美子も「鉄山をひかえた倶知安の町へ来ました」(最初の北海道旅行の時、倶知安から夫宛に出した葉書)とまで書いています。今、脇方へ行っても、鉱山碑以外、何の目印も案内板もないため、5分ととどまっていられません。本当にもったいない話だと思う。ここから鉄が出たおかげで、後志全体のいろんな事物が変化していったのだということが示されれば、一日散策していても足りないくらいいろいろな意味が埋まった土地なのに。

 
▼ F 峯崎ひさみ「北の沢」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:34  No.223
  【碑文】
 おやじの熊撃ちを目の当たりにしたのはそれが初めてだった。身体の震えはなかなか止らなかった。いったん止んだ風花が、身じろぎもしない熊と夥しい血の上に舞い始めていた。戸がきしみ、手かざししながら母親が出て来た。薄物の裾が乱れ、肉付きのいい臑が見え隠れしていた。土に滲みきれず渦になっている血を踏んで、母親はおやじの側に歩み寄った。それはまるで、息絶えた熊の肉体から抜け出した化身のようにも見えた。母親は眩しそうにおやじを見上げた。息苦しかった。母親は袂の端を唾で濡らすとつと白い腕を伸ばし、おやじの髭面の返り血を拭った。俺の心臓が音立てて鳴った。
「ええ男だの……」
(峯崎ひさみ「穴はずれ」)

 
▼ 解説6
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:36  No.224
  京極の町に本当に必要なのは、この、峯崎さんの「北の沢」碑ひとつかもしれません。@からEまでの空想碑は、つまるところ、記念碑です。これこれの出来事がこの京極の町にありました、と。でも、この「北の沢」碑はちがいます。なんと云ったらいいのか、この「北の沢」碑をこの町に建てるということは、これからも、私たちは、この町に、この土地に生きてゆくんだという決意表明というか。そういう性質の碑ではあります。若くしてこの土地を離れ、遠く千葉の浦安で「北の沢」の物語を書き続けている峯崎さんのスピリットを尊く思う。だからこそ、こうして、これからも私たちは「北の沢」を生きてゆくのだという想いの空想碑なのです。「北の沢」碑にはいろいろな碑文が浮かんでは消えたのですが、いろんな想いをぎゅっと絞って、最初の出会いの地「穴はずれ」の村に戻ってきました。





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