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No.227 への返信フォームです。

▼ 北海道新聞に見る「一握の砂」百年
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:52  No.227
   昨年は啄木の「一握の砂」が刊行されてから百年.名だたる研究者、ファンからのコメントがマスコミ紙上を賑わせました。啄木も在職していた釧路新聞。それもルーツに持つ北海道新聞記事に、啄木の北海道を探ります。
http://www.swan2001.jp/takuimg3/doshin201012.jpg

 
▼ @−a 創作に色香 人間性深く
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:54  No.228
   まずは、2010年11月19日夕刊見開きの大特集。

 短歌、詩、評論など、26年と2ヶ月の短い生涯の中で生みだした作品が今も多くの人の心をとらえる石川啄木。その才能の開花は、1年弱に及んだ「北海道漂泊」の日々抜きには考えられない。その象徴ともいえる珠玉の歌集「一握の砂」は、12月1日で刊行からちょうど100年になる。啄木は北海道で何を得たのか。歌集を手がかりに、天才歌人と北海道のかかわりにあらためて光を当ててみた。(黒川伸一)

 北海道体験が色濃くにじむ「一握の砂」。国際啄木学会前会長・近藤典彦氏のコメント。

 啄木は北海道に渡って初めて本格的な勤め人になった。内地とは全く違う北海道の自然とそこに懸命に生きる人々の姿は生活者啄木の胸を打った。いわば北海道で『人間発見』をした。それが後に、多くの名歌を生み出させることになる。

 片面は「創作に色香」として、北海道定番の三人の女性、橘智恵子、小奴、梅川操をとりあげている。橘智恵子について、函館の研究家・桜井健治氏は、

 代用教員の啄木に対し、智恵子は訓導(正教員)。啄木の片思いだったが、偉ぶらずに接したその清楚さに対する思い入れは相当なものだった。

 
▼ @−b 創作に色香 人間性深く
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:55  No.229
   梅川操について、釧路啄木会会長・北畠立朴氏は、

 「一握の砂」では、梅川関連の歌は2、3首だが、北畠さんによると釧路新聞紙上で「一輪の赤き薔薇(そうび)の花を見て火の息すなる脣(くち)をこそ思へ」など9首が掲載。啄木が釧路を素材にした小説「病院の窓」で、梅川がモデルの看護師を美化したり、釧路を去る前に、大切なかるたを梅川に託したことなどをとらえ、「彼女は当時としては珍しい進歩的な女性。啄木はそんなところにひかれたと思う」と指摘する。

 梅川操再評価の気運。「啄木を愛した女たち」(太陽)を6月に刊行した札幌の放送作家・佐々木信恵氏も、釧路のふたりの女性について、

 橘智恵子には歌がたくさん残されたが、実際は表面的な付き合いしかできなかった。しかし釧路時代のふたりとは短時間だったが、互いに内面に深く入った。啄木は小奴には優しさ、梅川には情熱を感じたと思う。特に梅川から燃え上がるような恋心を見せられ、逆に新鮮に映ったのでは。

 記事で、三人の女性を詠った啄木の歌のカウントが、近藤、桜井、北畠の三氏でそれぞれ異なっていることが報告されている。大変興味深い。

 
▼ A 郁雨連載「一握の砂」書評 一冊に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:56  No.230
   (2010年12月2日)

 石川啄木(1886〜1912年)の親友で、後に義弟になった宮崎郁雨(1885〜1962年、函館)が、啄木の第1歌集「一握の砂」刊行をうけて、函館日日新聞紙上で長期連載した同歌集に対する書評と啄木の返信書簡を採録した、「なみだは重きものにしあるかな−啄木と郁雨」が東京・桜出版から出版された。啄木研究者の遊座昭吾さん=盛岡市=が、「一握の砂」刊行100年の1日に合わせて刊行した。
 (中略)
 遊座さんは、函館市中央図書館に保存されている同新聞をもとに、こうした掲載記事を再現し、啄木と郁雨の強い友情の交換を浮き彫りにした。「100年間、図書館に眠っていた最初の『一握の砂』書評のみずみずしさを感じてほしい」と話す。

 
▼ B−a 啄木献辞本 今も岩見沢に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:58  No.231
   (2010年12月10日 夕刊)

 石川啄木が北海道体験を経て生み出した第1歌集「一握の砂」(全551首)が刊行されて100年がたった。刊行時、啄木は何冊かの献本をしたとみられるが、とりわけ思いを込めて贈った一冊が、函館区立弥生尋常小時代の同僚教諭、橘智恵子の嫁ぎ先、岩見沢市北村の北村牧場で今も大切に受け継がれていることを知る人は少ない。また、森鴎外への献辞入りの献本も新たに発見された。珠玉の歌集の献本については全容が分かっておらず、研究者の関心が集まっている。(黒川伸一)

 北村家に嫁いだとも知らず、札幌の智恵子の実家に贈られた一冊について、

 智恵子は、贈られた「一握の砂」の裏表紙裏に、この(啄木の)はがきを張り付け、生涯秘蔵した。智恵子の死後にその存在が分かり、現在は、北村牧場で智恵子の長男(故人)の妻、北村千寿子さん(91)が保管している。同牧場は「今後もきちんとした形で残していきたい」(経営者の中曽根宏さん)という。

 
▼ B−b 啄木献辞本 今も岩見沢に
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 15:59  No.232
   記事には北村牧場本の写真もついており、キャプションに、

 北村牧場本の裏表紙裏に張り付けられた啄木からのはがき。智恵子が家族に見られないよう、厚紙を張った跡も残る

 一方、森鴎外に贈られた一冊について、近藤典彦氏は、

 啄木は鴎外にその才能を買われて愛されていたが、あることから啄木側にわだかまりが生じたとされてきた。しかし、この献辞の確認は、鴎外への敬愛が生涯続いていたことを示しており、啄木と鴎外の関係全体をとらえ直す上で画期的な資料

 
▼ C 「啄木は思想家」
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:01  No.233
   (2010年12月14日 小樽後志欄)

【余市】 国際啄木学会前会長の近藤典彦さん(71)=旭川市出身、神奈川県在住=が町中央公民館和室で「石川啄木の偉大さ」と題して講演し、1910年の大逆事件や韓国併合を著作で取り上げた啄木の思想家としての一面を語った。
 北星余市高校の教師経験がある近藤さんは啄木研究の第一人者。5日の講演で、「啄木は歌を作っただけの人ではない。詩人であり、小説家であり、書家でもある。さらにジャーナリストであり、優れた思想家であった」と指摘。(後略)

 
▼ D 校正の仕事に悩んだ啄木
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:02  No.234
   (2010年12月18日)

 歌集「一握の砂」が刊行100年を迎えた石川啄木。彼は北海道新聞の源流の一つである札幌の新聞社「北門新報」に約2週間、校正係として在籍していました。
 愛好者でつくる「小樽啄木会」の水口忠会長は「時代を読む先見性があり、3行書きの短歌は当時は画期的。天才だと思います」と話します。同じような仕事をする私も誇らしい気になります。
ただし、彼は校正の仕事を快く思ってはいなかったようです。「不知、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞に拙く眼のみ光れる、よく此札幌の風物と調和するや否や」(秋風記、石川啄木全集第4巻、筑摩書房)。
 晩年の「悲しき玩具」にはこう詠んでいます。
  みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ、
  誤植ひろへり。
  今朝のかなしみ。
 故郷・岩手の新聞を読み、間違いを見つけてむなしさを感じる啄木の姿がありました。水口さんは「道内にいたころも東京に出て文学で活躍したいという願望(東京病)がありました。想像ですが校正と文学とで乖離を感じたのでしょう」と推し量ります。(後略)

 
▼ E 啄木と郁雨 山下多恵子著
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:04  No.235
   (2010年12月19日 書評)

 今年は石川啄木の歌集「一握の砂」が刊行されてから100年にあたる。いまもなお多くの人びとに読み継がれている国民的歌集だが、そのなかで啄木が献辞をささげた人物の一人が宮崎郁雨だ。啄木を物心両面で支え続けた函館時代の文学仲間である。
 本書は2人の友情を軸に、文学的視点からそれぞれの生涯を描き出した異色の評伝。著者は新潟県在住の評論家で国際啄木学会理事。
 郁雨は1885年(明治18年)、新潟県生まれ。4歳のとき函館に移り、やがて父親は、みそ醸造所を起こし財を成した。啄木が1907年(明治40年)に函館へ渡って来たことで2人の交流が始まるが、啄木は札幌、小樽、釧路と道内を転々とした後、08年には妻や母などを函館に置いて上京する。以後、残された家族の生活を一手に引き受けたのが郁雨だった。
 文学という大きな夢と才能を持ちながら、生活という切実な問題を抱えて身動きができなくなっている友人を支え続けた郁雨。彼に厚い信頼を寄せた啄木。本書はこれまで見過ごされがちだった郁雨に関する資料も丹念に読み解き、2人の交流と郁雨の存在が啄木の文学に与えた影響を、あらためて明らかにしている。
 本書には、「啄木と雨情」と題された評論も収録され、札幌、小樽時代の啄木と、そこで深く交流した、後の童謡作家・野口雨情との関係を論じる。郁雨を論じた部分と併せ、啄木の北海道時代が新たな視点からとらえ直され、興味深い。 (中舘寛隆=編集者)

 
▼ F 啄木の歌碑 武井静夫
  あらや   ++ ..2011/06/20(月) 16:05  No.236
   (2010年12月22日夕刊 コラム「えぞふじ」)

 石川啄木の歌碑が、倶知安町に2基ある。倶知安駅前公園に建っている
  真夜中の/倶知安驛に/下りゆきし/女の鬢の/古き痍あと
と、同町旭が丘公園中央広場に建立されている
  馬鈴薯の/花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を/好きたまふらむ
とである。
 啄木が函館から小樽に行く列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治40年(1907年)9月14日の午前1時すぎである。21歳の啄木は、妻と子を函館に置き、北門新報に入社のため単身札幌に向かっていた。(中略) 倶知安は開墾がはじまって15年、街には電灯もともっていなかった。(後略)

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