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No.211 への返信フォームです。

▼ 京極空想碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:04  No.211
  なんてことはない小樽の寿司料理店である。けれども、その店頭に「明治40年9月、石川啄木一家、ここに住む」の看板が建てられれば、事態は大きく変わる。この店は、啄木ファンが小樽をめぐる際の聖地になるからだ。文学散歩の昼食は、ここ。啄木忌の講演が終わったら、打ち上げは、ここ。

湧学館で「後志の文学」講座を開いているが、第3回「胆振線」〜第4回「北の沢」を終えて、京極町にはこんなに町オリジナルの素材があるのに活かさないのはもったいない…と思うようになりました。以下、京極の空想碑です。

 
▼ @沼田流人文学碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:09  No.212
  【碑文】
 誰も彼も、揉みくちゃになった襤褸のように疲れきっていた。
 あの、食物を盗まれた老人は、沈んで行く夕陽に掌を合せて礼拝し、側に立っていた同僚にそっと囁いた。
『日が暮れる………。兄弟………。』
 彼は、小児のように嬉しげに、微笑していた。意地悪い蝎は、それを見逃さなかった。
『老毫纂奴……仕事さえ止めれば、歓んであがる!』
不運な老人は、太陽に感謝した罰で、その額を一つ殴り飛ばされた。
(沼田流人「地獄」)

【案内板】 沼田流人・ぬまたるじん。
 明治31年(1898)6・20−昭和39年(1964)11・19。小説家。岩内郡老古美村(現・共和町)に生まれる。はじめ山本一郎といい、明治38年に養子となって沼田明三となる。大正10年2月の「種蒔く人」(秋田版)に小説「三人の乞食」が掲載されたが、発売禁止になったため本人はその事実を知らなかったという。倶知安−京極間の軽便鉄道「京極線」の敷設工事がはじまったのば大正6年からだが、倶知安に居住していた流人は現在の京極町北岡に集められた土工たちの悲惨な労働を見聞し、それをもとに長篇小説「血の伸き」(叢文閣、大12)を刊行した。発売禁止になったが、同じ素材によったのが同15年9月の「改造」に載った「地獄」である。ついで昭和5年には「監獄部屋」(金星堂)を上梓した。流人は倶知安の地で労働運動の協力者として地味な生活を送ったが、戦後の23年5月から倶知安高校で書道の講師を勤め、その地で没した。

 
▼ 解説1
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:10  No.213
  この碑の場所は「軽川(がるがわ)トンネル」跡地しかないでしょう。それも、トンネルの倶知安側。タコ部屋のあった場所。できるならば、今は塞がれている軽川トンネルを開けて中を通れるようにして、倶知安側に「沼田流人」碑。そして、京極側に、本山悦恵さんの「雪灯り」碑か、あるいは小林多喜二の「東倶知安行」碑がいいのですが…(多喜二碑については、他の案もあります)

 
▼ A本山悦恵「雪灯り」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:11  No.214
  【碑文】
 やがてトンネルに入った。窓の隙間や入口から容赦なく煙が入り込み、旦那は襟巻で顔を覆っている。ほどよい振動でウトウトしていた鈴は咳き込み、旦那の膝に顔を埋めていた。
 信治郎はその苦し気な様子を見て、腰の手拭いを取り、鈴の顔に当ててやった。
 「あんた、なかなか気が利くね。わしはどうも気が回らん」
(本山悦恵「雪灯り」)

【解説】 本山悦恵・もとやまえつえ (調査中)

 
▼ B小林多喜二「東倶知安行」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:12  No.215
  【碑文】
 夜空が高く、青く澄んでいた。マツカリヌプリ裾野の空気は硝子張りのように凍えていた。空一杯の星が氷粒のような鋭い光を放っていた。晴れ渡った野天の夜空が如何にも大きく、広かった。その感じは小樽などでは決して無かった。
――底から冷たかった。
 演説会が終って、雪の狭い一本道を皆が一列に帰って行った。道に掘らさっている馬の蹄や馬橇の窪みに足を落さないように、私達も汽車に乗るために、その列に入っていた。雪の、寒気(しば)れた夜道は皆の足駄や下駄の歯の下でギュン/\と鳴った。
(小林多喜二「東倶知安行」)

 
▼ 解説2
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:13  No.216
  軽川トンネル跡・京極側に、「雪灯り」碑か、「東倶知安行」碑を…と思うのは、どちらも当時の「京極線」の「京極駅」風景を描いているからですが、当の京極駅跡地にはでっかい工場が建ってしまっているので、あえてそこに碑を建てるよりは、軽川トンネルに建てた方が小説の雰囲気に適っているかなと思ったのです。トンネル内を通って、京極線跡をずーっと「ふきだし湧水公園」あたりまで遊歩道でつないでしまえば、けっこう良い観光スポットになるのではないでしょうか。

 
▼ C小林多喜二「東倶知安」碑
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:14  No.217
  【碑文】
 ――お前はレーニンのように「あがめられたい」と思っているのだ。
 ――お前はたゞ無産階級運動の「大立物」になりたいためばかりに一生ケン命なのだ。
 ――お前は一生の間こうして一生ケン命になって、自分がそのまゝ埋もれ、しかもこの運動が一寸目鼻もわからないとしたら、とっくの昔に裏切ってしまっていたのだ。
 ――お前は中央に出て行って「認め」られたいためにしている。この運動が東京だけで出来るとでも思っているように。
 そうでないとは云わせない。お前の心の何処かゞそればかを望んでいたのだ。
 私は白状しよう。――私は、そうだった!
(小林多喜二「東倶知安行」)

【解説】 小林多喜二・こばやしたきじ
 明治36年(1903)10・13−昭和8年(1933)2・20。小説家。秋田県で没落農家の次男として生まれた。明治40年に一家は伯父を頼って小樽に移住し、大正5年から庁立小樽商業学校に学び、同10年に小樽高等商業学校に進んだ。一級下に伊藤整がいた。同13年北海道拓殖銀行に勤める傍ら同人雑誌「クラルテ」を主宰し、文学運動と共にやがて労働運動にも身を置く。この時期に不幸な境遇の田口タキを識った。「一九二八年三月十五日」で高い評価を得たあと「東倶知安行」「蟹工船」「不在地主」を続々中央の文芸雑誌に発表して反響を呼ぶ。銀行を解雇された多喜二は昭和5年に上京し、精力的に創作活動と共産党活動を続けたが、地下連絡中に逮捕されその日のうちに拷問によって虐殺された。行年30歳。
 「東倶知安行」には、昭和3年の第一回総選挙において北海道一区に労農党より出馬する山本懸蔵の応援演説のため当時の東倶知安村(現・京極町)に駆けつけた小林多喜二や演説会場となった光寿寺(現存・京極町字京極800)が描かれている。また、開通から十年が経過した「京極線」の様子が描かれていることでも貴重な作品となっている。

 
▼ 解説3
  あらや   ++ ..2010/08/24(火) 21:16  No.218
  小林多喜二「東倶知安行」碑にふさわしい場所が、もうひとつ。それは「山懸」(小説では「島正」)の演説会場となった「光寿寺」です。現在も「光寿寺」としてそのままの姿で残っているこの場所の意味を大切にしたい。碑文に、「東倶知安行」からあえてこの部分をとりだしたのは、通俗的な「小林多喜二」解釈を脱したいから。「東倶知安行」がなぜ私たちの心を打つのか。それは、小説のラストにこの数行があるからだと信じて疑いません。小樽でもなく、東京でもなく、京極に建つべき碑であると思います。

 
▼ D大町桂月「脇方」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:27  No.219
  【碑文】
独向白雲深処遊
丹楓黄桂満山秋
水枯却喜不長舌
賎々渓聲落枕頭
東倶知安鉄山にて
      桂月作

【案内文】 大町桂月・おおまちけいげつ
 明治2年(1869)1・24−大正14年(1925)6・10。高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。雅号の「桂浜月下漁郎」はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年は遠く朝鮮、旧満州にまで足を延ばしている。桂月は北海道層雲峡の名付け親でもある。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。碑文は、大正十年八月の大雪山登山の帰路、日鉄鉱業北海道工業所の所長をしていた甥の大町政利(鉄石山人)を訪ねて東倶知安村脇方に泊まった際、求めに応じた桂月の残した漢詩。深まりゆく脇方の秋を詠っている。

 
▼ 解説4
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:29  No.220
  教養がないので、大町桂月の漢詩や書がどれほどのものなのか、よくわからない。ただ、京極町で桂月の碑を建てるというのならば、碑文はこの詩以外にはないだろう。場所も脇方以外には考えられない。桂月碑は、大雪山や南アルプス山頂に建てられるなど、異色であり、また、それが故に有名でもある碑が多い。現在、脇方には新日鉄倶知安鉱山碑がすでに建てられている関係で、羊蹄山山頂(京極町)へ桂月碑を持ってくるというアイデア(当然ながら桂月は羊蹄山にも登っている)もなくはないが、まあ順当に考えて、脇方でしょう。折衷案として、脇方から羊蹄山がくっきり望めるようなロケーションがよいのではないでしょうか。

 
▼ E「わっかたさっぷ」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:31  No.221
  【碑文】
私は大正十四年九月、
倶知安鉱山の再開した年に輪西製鉄所から脇方へ来まして、
爾来、昭和二十六年三月までの二十七年間、
会社名は、(株)日本製鋼所、輪西製鉄(株)、輪西鉱山(株)、
日鉄鉱業(株)と変わりました。
また、その度に経営者も変わったのですが、
私は脇方鉱山のみに勤務していましたので、
いわば井の中の蛙と言うところでしょう。
顧みるに脇方は、
ワッカタサップ時代の明治四十一年四月、集団入植以来六十四年。

 
▼ 解説5
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:32  No.222
  出典は、佐々木六郎著「わっかたさっぷ」。自費出版の本。その冒頭の文章です。
昔、京極町脇方にあった新日鉄倶知安鉱山に二十六年間奉職した佐々木六郎氏の回想録。佐々木氏の著作なのですが、本の中に、別の著者「鉄石山人」こと大町政利氏(←解説4)の随筆集「脇方の思い出」が120頁にわたって入ってくる…という不思議な造りの本。
現在、脇方には新日鉄倶知安鉱山碑がすでに建てられているのですが、なにか、あの碑は素っ気ない。もっと「鉄石山人/わっかたさっぷ」碑といったようにコンセプトを揃えて(案内板も添えて)、胆振線・脇方駅碑なんかもできたら添えて、ここに「脇方」という町があった…という形をバーンと出した方がよいのではないか。林芙美子も「鉄山をひかえた倶知安の町へ来ました」(最初の北海道旅行の時、倶知安から夫宛に出した葉書)とまで書いています。今、脇方へ行っても、鉱山碑以外、何の目印も案内板もないため、5分ととどまっていられません。本当にもったいない話だと思う。ここから鉄が出たおかげで、後志全体のいろんな事物が変化していったのだということが示されれば、一日散策していても足りないくらいいろいろな意味が埋まった土地なのに。

 
▼ F 峯崎ひさみ「北の沢」碑
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:34  No.223
  【碑文】
 おやじの熊撃ちを目の当たりにしたのはそれが初めてだった。身体の震えはなかなか止らなかった。いったん止んだ風花が、身じろぎもしない熊と夥しい血の上に舞い始めていた。戸がきしみ、手かざししながら母親が出て来た。薄物の裾が乱れ、肉付きのいい臑が見え隠れしていた。土に滲みきれず渦になっている血を踏んで、母親はおやじの側に歩み寄った。それはまるで、息絶えた熊の肉体から抜け出した化身のようにも見えた。母親は眩しそうにおやじを見上げた。息苦しかった。母親は袂の端を唾で濡らすとつと白い腕を伸ばし、おやじの髭面の返り血を拭った。俺の心臓が音立てて鳴った。
「ええ男だの……」
(峯崎ひさみ「穴はずれ」)

 
▼ 解説6
  あらや   ++ ..2010/10/25(月) 12:36  No.224
  京極の町に本当に必要なのは、この、峯崎さんの「北の沢」碑ひとつかもしれません。@からEまでの空想碑は、つまるところ、記念碑です。これこれの出来事がこの京極の町にありました、と。でも、この「北の沢」碑はちがいます。なんと云ったらいいのか、この「北の沢」碑をこの町に建てるということは、これからも、私たちは、この町に、この土地に生きてゆくんだという決意表明というか。そういう性質の碑ではあります。若くしてこの土地を離れ、遠く千葉の浦安で「北の沢」の物語を書き続けている峯崎さんのスピリットを尊く思う。だからこそ、こうして、これからも私たちは「北の沢」を生きてゆくのだという想いの空想碑なのです。「北の沢」碑にはいろいろな碑文が浮かんでは消えたのですが、いろんな想いをぎゅっと絞って、最初の出会いの地「穴はずれ」の村に戻ってきました。

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