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 ■ 2022年5月14日(土)
    ++ 江戸の事情   

 

今は今上天皇がお住まいの「皇居」と呼ばれる建物
これはそれ以前は江戸城でありました
日本において戦も無い穏やかな300年弱を築いた徳川将軍が起居する場所であり政治の中枢でもあります
この江戸城は初代将軍家康から三代将軍家光になるまで掛って完成されたと言われています
しかし
家康は何も無かった所にこの城を築いた訳ではありません
遥か昔に太田道灌が建てたと言う城が残っていたのです
「七重八重 花は咲けども山吹の・・・」の歌で有名な太田道灌が建てた城は大変な名城であったと言われます
残念な事に家康が江戸入りした頃にはこの城は跡形もなく朽ち果て草が茫々と生える荒れ地であったそうです
では
太田道灌の前は何もなかったのかと言えばこれがそうでは無さそうです
坂東平氏の流れをくむ江戸重継がここに拠点を置いて屋敷を建てていました

なぜみんなこの地を選んだのかと言えば地形があげられるようです
河口に近いこの場所は大地の端でもあり守に適し攻める側からすると非常に攻めにくい
戦が絶えない時代の事ですからこうした事が非常に重要であったからだと思われます

先人の知恵に則って建てられた徳川の江戸城は明治の世になるまでに何度も何度も火事に見舞われ再建が儘ならない建物も数多くありました

争いが無くなった時代
江戸で一番怖かったのは火災だったのかもしれません

No.38




 ■ 2021年1月7日(木)
    ++ ラチ   

 

ここ一年は何かと規制がかかって行動も自由にならない
あれも駄目これも自粛
まさに「ラチが明かない」状態になっている
さて
この「ラチ」とは何なのだろうか
漢字に直すと「埒」となる
背の低い垣根や柵の事であると言われ主に競馬場の柵を指すようだ。
この競馬場の柵が取り払われる事を「埒が明く」と言い元々はすっきりと物事が終わる事を表し、こちらの言葉が先に有ったようなのである
ところが
最近は「埒が明かない」と否定的な言い方だけが大手を振っている。

この「埒が・・」には京都の上賀茂神社の或る行事が大きく関わって居ると言う。
有名な葵祭に先立って競馬会神事が執り行われるのだが、この神事の為に境内には柵(埒)が設けられるのだ。
当然入場は制限されてしまう事となる。
大事な神事とは言え自由に入場できないのは何とも切ない。
神事が終わってこの柵が取り払われると自由に入る事ができるようになったと喜ぶ人々が
「これで自由に神社の中に入る事ができる。」と声を上げ「埒が明く」と言ったと言う説がある。

もう一つ

これは逆に神事に関わる人の立場から出たと言う説。
競馬会で騎乗する人たちである。
神事であるから当然 精進潔斎を行う。
穢れに触れぬように用心し当日も粗相のない様にと務める訳だ
このプレッシャーに負けぬように神事の日までひたすら耐えて当日を迎える。
こうして無事に神事を終えると騎乗した人たちは柵が払われたと同時に大役から解放されて普通の生活に戻ることができるのだ
まさに「埒が明く」この日は彼らにとって精進の日から解放される有難い日でもあったという事なのだ。

今年も「埒が明かない」状態で始まったが一日も早く「埒が明く」が来て欲しいと願うばかりである。



No.37




 ■ 2020年9月26日(土)
    ++ 席も温まらずに国造り   

 

その昔
江戸と言う田舎町に徳川家康がやって来たのは1590年と言われる。
入り組んだ海辺は数多くの入り江が有り湿地ばかりが目立つ鄙びたところであったと伝わる。
そこで家康は早々に江戸を整える作業に取り掛かる・・・という事にはならなかった。
何しろこの時点で家康は豊臣秀吉の家臣の一人であり江戸への転封も左遷であったと言われる状態である。
家康は江戸に腰を据える間もなく秀吉がいる大阪へ戻らねばならなかったし朝鮮半島への出兵の準備の為に肥前名護屋に詰めたりと多忙を極めた。
とても江戸の街の整備はなおざりにならざるを得なかった。

そうこうしているうちに秀吉がこの世を去り石田三成たちとの関ケ原の戦いを勝利して家康は危ない橋を渡るようにして足元を固めていったのである。
家康江戸に幕府を開いたのは1603年の事である。
それでも江戸の街はまだまだ整ったと言うには程遠い状態であったとされる。

江戸の街造りがとにもかくにも落ち着いた頃に将軍は三代の家光の時代になっていたのである。
家光は家康を大層尊敬していたとされ父である秀忠が建てた天守閣を取り壊して新たに天守閣を建て直したとされる。
こうした事が幕府の財政に大きな影を落とす事になったと言われる。

家康が入府してから長い年月をかけて築き上げた街は家康自身も想像できないほどの発展をするのだがそれに伴って武士の生活は困窮を極めるようになって行くのは皮肉なものである。

国造り
それは安穏と座っていては出来ない事業なのではないか。


No.36




 ■ 2020年8月17日(月)
    ++ ちょいと涼しくなる為に   

 

猛暑が続いているのでちょいと涼しくなるかも知れない話を一つ。

江戸に幕府が有った時代刑場と呼ばれる所はいくつか有ったのだが有名なのが「鈴ヶ森」と「小塚原」である。
今回はその「鈴ヶ森」についてである。

鈴ヶ森は東海道の品川宿の外れにあった。
東海道を下って来て愈々江戸御府内に入ると言う際に存在していたのである。
故に多くの人がこの刑場を目にする事となった。
1651年に設置され1871に廃止されるまで存続していたと言う。
つまり明治の代になっても暫くはここが刑場だったと言う訳である。

斬首の刑は小伝馬町の牢屋敷内でも行われていたが晒し首の刑になった者の首はこの鈴ヶ森に晒されたのである。
現在でも「磔台」「火炙り台」「首洗いの井戸」等が残っている。
この鈴ヶ森で処刑された罪人は数多く慶安事件の丸橋忠弥・御落胤事件の天一坊・火付けの罪で罪人となった所謂八百屋お七など10万人に及ぶと言われる。

心霊スポットとして最近は名を挙げている鈴ヶ森であるが明るい陽光の下で訪れれば車も途切れないごく普通の風景である。
しかし
大経寺の境内になっており供養塔もたっている刑場跡であることに間違いはない。


No.35




 ■ 2020年3月13日(金)
    ++ 銭形平次はセレブだったのか   

 

江戸時代を舞台とした捕り物話は人気が高い。
人形佐七・半七・・・魅力的な岡っ引きが主人公の話もたくさんありテレビでドラマになっている。
中でも特徴的なのが銭形平次である。
彼の決め技は投げ銭であった。
腰に下げている銭を取って下手人に向かってピュッと投げる。

さて話は平次の身に着けている銭の話である。
腰には十数枚の銭が紐によって束ねられているのだがこの紐を「さし」と呼ぶ。
銭に空いている四角い穴にこの「さし」を通して持ち運ぶのだがこの「さし」を売り歩く商売も江戸にはあった。
「さし」10本を束にして売っていたようで一束10文くらいだったそうなのでそれほど実入りの良い仕事では無かったかもしれない。

銭形平次はこうして吊るした銭をいつも腰に仕込んでいたわけである。
この四角い穴が開いている銭なのだが一枚で今の価値にすると100円くらいだった。
つまり平次は100円をばら撒いていた事になる。
岡っ引きは幕府に雇われている訳でもなく収入は同心からもらう小遣い程度であった。
にも拘わらず平次は銭を投げる。
一回で済まなければ下手人に何個も投げたかも知れない。
お縄にしてから投げた銭を拾い集めていたのかと想像すると笑うしかない。
顧みなかったとすれば銭形平次は存外にセレブだったという事になる。

時代物は表に出ていない事を考えると違う世界が見えてくるのだ。

No.34



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