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  2016/7/19(火)
  身なりというシグナル   
  7月4日のニュース番組で、とある海外の動画が紹介されていた。
その動画は、上品な格好をした子役の少女(6歳)が独りで道端に立っていると多くの大人が心配して声を掛けるが、同じ少女が薄汚れた身なりになって同じ場所に立ったら通行人は一顧だにしない、という光景を映したものだった。子供の身なりの違いによる周囲の反応の変化を見た社会実験動画だそうだ。
同じ動画には、道端のときと同様に身なりを替え、少女が独りでカフェに入った場合の比較もあった。カフェでは、客の男性が店員に言って少女を追い出させる場面もあり、最後には子役の少女が泣き出してしまっていた。言わずもがな、追い出されたときの少女は薄汚れた格好をしていた。

その番組では、今時らしく画面下部にTwitterのリアルタイムコメントが流れていたんだけど、そこには「人間って残酷」「見た目の差別だなんて、イヤだな」「見た目で判断するなんて良くない」って感じのコメントがチラホラ流れていて、思わず首を傾げた。

だって、人を見た目で判断するって至極当たり前のことだ。

とくに、動画の実験にあるような見知らぬ人が行き交う道端や見知らぬ人と隣り合うカフェで、外見以外の何で他人を判断すればいいと言うのだろう。
上品な格好した少女が道端に一人でいるのを見かけたら「こんなに身なりがきちんとした子供に保護者が付いていないのは異常事態だ」と思うし、声をかける人も多いだろう。逆に、ストリートチルドレン風の少女が道端にいても、少女は居るべくして居るのだろうと思う。カフェで楽しんでいるときに身なりの良い女の子が突然自分のテーブルに着いたら「退屈してテーブルを離れちゃったのかな?」とか「迷子かな?」と心配するし、貧しそうな格好をした人間が隣に座ってきたら「何か盗られるかも」と思って自分の荷物を確認する。
それは、社会的生活を送るなかで培われてきた全うな判断と反応じゃないだろうか。

そもそも、この実験の実施者も「こういった格好をさせたら人の態度が一転するだろう」と予測したからこそ、ストリートチルドレンのようなメイク・服装を施したんだろうし。
ボランティア団体だって、貧困にあえぐ街の子供を救おうと考えた場合、高価で清潔な身なりの子供ではなく、薄汚れて着古した服装の子供を保護対象と見るはずだ。


全く別の経済番組の話になるけれど、そこでは「シグナリング」なる単語が紹介されていた。シグナリングとは「コストのかかる行動をとることで、自分の能力や本気度を伝えること」だそうな。
日本では馴染みがないけど、ドレスコードというのは正しくこのシグナリングの一種だと思う。
私はドレスコードのある店に行ったことがない(少なくとも店先で止められたことはない)けれど、コードがなくてもランクの高い店に行く場合は、自分なりに高価な(もしくは高価に見える)服装を選ぶ。これは、言葉を用いたコミュニケーションを築きにくい店側に対して「あなたのお店に敬意を払っているから、私はこれだけ身なりに心を配って来ました」と一目で伝えるためだ。

こんな感じで、身なりというのは一種の言語みたいに機能していると思うんだよね。
もちろん身なりが全てとは思わないけれど、身なりからその人の金銭状態や趣味嗜好や物の管理に対する姿勢などの一端は読み取れる。


そう考えると、キャラデザって大事だよね。
例えば、ダガーとエーコは同じツナギ着用者だけど、ダガーは袖にたっぷりと生地を使っているブラウスに身体にフィットしたツナギを重ねていて、エーコはタートルネックのカットソーにダブダブのツナギを着ている。どっちも可愛い服装だけど、格好だけで二人の社会的ランクの違いが伺える。
ジタンの服装も、サラと同様にベルトが多い実用的な服装っぽい反面、袖や襟にレースが施されていて洒落っけが出ている。でも、使い古された締まりのないブーツが印象的でハイソな人間には見えない。

たぶん、ジタンとサラの服装が逆だったとしてもそこまで違和感は覚えないけど、ダガーとエーコの服装が逆だったら違和感があっただろう。それは、まさしく服装が発している、それを着る人物の背景に違和感を覚えてしまうからだと思う。
No.217



  2016/3/12(土)
  チョコボのほっと一息   
  2013年2月2日の日記「原石収集」(記事No.209)で、チョコボのほっと一息に関して「砂浜じゃないのに、サルベージュ諸島にある空中庭園の影が落ちる島で全回復ができる」というバグを見つけたと書いた。もしかしたら他の場所にもバグがあるのかもしれないから折をみて調べたい、とも書いた。
で、昨日ふと思い立って調べてみた。


結論1:バグじゃなかった。
結論2:他の場所でも同じ現象が確認できた。



ほっと一息を発動させた後に回復ポイントになるのは、「砂浜」ではなく「砂浜を含む沿岸エリア」だという事が確認できた。
つまり、霧の大陸のテュハンダ海岸・ノマラニアビーチ・メタローク海岸・マキキビーチ・ランシェーク島・デレクビーチ・トグルビーチ・イージスタンコースト、外側の大陸のダイシュノーズ海岸・コグニーシュ海岸・ゲカルチ海岸・トシェンガラスタ海岸・ファルステッドコースト・バーニヤノ海岸・コミューキレ海岸、閉ざされた大陸のクェルミラ海岸・オドリューキ海岸、忘れ去られた大陸の南西にあるエバーラング島・ラナール島・サルベージュ諸島・パームネル島。
以上の21エリアに立っていれば(メニュー画面を開いて右下に上記の地名が表示されていれば)、砂浜が無い島であろうと、どんなに内陸に位置していようと、×ボタンで全回復できる。

ほっと一息を発動するまでの説明で「世界中の砂浜を訪れるがよい」だの「全ての砂浜を訪れた時、しばしの安らぎをもたらそう」だの「世界中の砂浜を訪れた証として×ボタンを押さないと」だのと「砂浜」を強調されているので、ほっと一息で回復したいときは律儀に砂浜に降り立って×を押していたけれど、ゲーム処理としては地名が判定基準になっていたらしい。

ちょうどいいタイミングのセーブデータがなかったので、砂浜を訪れた証も上記エリアにいれば可能なのか、それとも砂浜にいなければ訪れた証をつけられないのかは分からなかった。
こちらも、折をみて検証したいと思う。……また、検証結果の報告が三年後とかになりそうだけど(笑)。
No.216



  2016/3/8(火)
  黒魔法という学問   
  FF9には、装備品に「魔道士」「魔導士」「魔術師」といった似たようなニュアンスの語を使った名前がある。
字面からすると、「魔道士」は魔道に通じ修練を積んだ者、「魔導士」は魔道に通じ魔道士を教え導く者、「魔術師」は魔術に秀で使いこなす者といった感じに区別できるかな。

で、これらが英語版でどうなっているか確認してみた。
「魔道士」は「mage」、「魔導士」は「high mage」、「魔術師」は「magician」となっていた。和英辞典によると、「mage」は魔法使いや学者を意味し、「magician」は魔法使いや奇術師や魔術師を意味する。ちなみに英英辞典では「mage」は魔法使いや学者を意味し、「magician」魔術や手品を行える人や魔力を持つ人を意味する、とまあ英和と似たような内容だった。
つまり、日本語の字面から読み取れるように、
 魔道士……魔術を行えて学問としての魔術を学んでいる者
 魔導士……魔道士より格上で魔道という学問を究めている者
 魔術師……魔術を行使できる者
といった感じだ。


ここで興味深いのが、装備品の振り分けだ。
FF9の装備品で「魔術師」と付くのは「魔術師の帽子」「魔術師の服」「魔術師のローブ」「魔術師のくつ」の四つで、靴以外はビビ・ダガー・エーコ・クイナの四人が、靴は魔法を使えないメンバーも含めた全員が装備可能だ。一方で、「魔道士」「魔導士」と付く装備品は「魔道士のつえ」「魔導士のつえ」の二つだけで、当然、これはビビしか装備できない。

そこから考えるに、FF9では(青魔法は別格として)白・赤の魔法に比べ、黒魔法は学問として研究が盛んだったのではないだろうか。
プリゾンケージに対するビビの魔法を見てスタイナーは「黒魔法」と言っていたし、劇中の戦闘に演出用の黒魔法モドキがあることからも、黒魔法は周知されている存在だと考えられる。作中では人造の黒魔道士兵以外の人間で黒魔法を使っている者は見られないが、おそらく人間でも黒魔法を使える者がいるのだろう。
そして、その黒魔道士たちは黒魔法を学問として学び極めて、修練を積んでいるのではないだろうか。


……と考えると、二次創作の熱がガンガン湧き上がるのですが、どうでしょう?(誰に聞いている・笑)
No.215



  2016/2/4(木)
  坪内逍遥先生、さすがです!   
  WHOが喫煙シーンのある映画やドラマの視聴に年齢制限をかける勧告をした、と報じられた。影響された若者が真似をする可能性を考慮して、とのことらしい。
正直、「なに言ってるの?」と言いたくなる。

受け取り手が創作物から影響を受けるのは、ままあることだし、真似ることもあるとは私も思う。でも、創作物を受け取り手の行動・人生に反映させるのは、受け取り手の自由で、受け取り手自身の人間性の問題なんじゃないかな。

たとえば、SMAPの木村拓哉がバタフライナイフを鮮やかに使いこなすドラマがあって、それを真似てバタフライナイフを所持する若者が増えて問題になったことがある。別のドラマでは主人公が愛用しているダウンジャケットが売れまくって、これもまた社会現象になっていた。
私の知り合いの映画好きのおじいちゃんは若い頃、ジャン・ギャバンに憧れて、購入した新品のトレンチコートを泥水につけては洗濯して使い古した感じに加工し、雨のなか傘を差さずに襟を立てて歩いていたものだと話してくれた。
私自身、小学生の頃にとあるネット小説に影響を受け、将来の夢を描き進路を定め、大学でもその分野に進んだ。

こういう人は少なくないんじゃないかな。
でも、ドラマに影響を受けてバタフライナイフで殺人を犯したとしても、それは少年自身の良識と人間性の問題。ジャケットを購入するためになけなしの貯金をはたいたとしても、それは購入者の自己責任。薄汚れたコートを後悔したとしても、それは本人の自己責任だし。
私は、自分が進路を早々に定めて邁進してきたことを後悔したことがあるけれど、それは視野が狭かった自分を責めたのであって、進路決定に影響を及ぼした小説やその作者に責任があるとは全く思わなかった。



ときどき、犯罪者の読書歴や好んだゲームなどの趣味嗜好と犯行との関係が論じられることがあるけれど、その度に私は、坪内逍遥の『小説神髄』を思い出す。
下の抜粋は、その思い出す部分。

--------------------
されば是等の稗史を閲して、邪淫の心を起せるもの、若しくは悪意を萌せるものは、その罪おのれが心にありて、稗史の与るところに非ず。小説はもと世態をば写しいだせる者にしあれば、読者にして活眼ありなば、書中に叙したる所によりて反省すべきが当然なり。譬へば他人のなりふりを見て我がなりふりを正さむとするは、有識の人の常なるをや。もし久松がお染を将て出奔なしたる条下を読みて、これを艶羨する傾きありなば、よし小説を読まざるとも早晩その念起りつべし。
(中略)
かかればかやうの徒に読まれて不当の非評をうけなむこと、いたき小説の冤罪にて、小説作者の迷惑なりかし。
--------------------

要は、罪を犯す人間はもともとそういった性質を持っていたのであって、小説に影響を受けずとも遅かれ早かれ犯罪者になっていただろうということ。だから、その責任を小説やその作者に押し付けるのは、はなはだ迷惑な話だってことね。

喫煙についてもそう。
映画やドラマを見て「カッコイイ!」って感想を抱いたとしても、未成年にも関わらず喫煙するのは良識の備わっていない当人が悪いのであり、万を持して成年してから喫煙するのは当人の自己責任でしょ。
喫煙は非道徳的な行為ではなく健康を害する行為なだけだから(未成年はやっちゃダメだけどね)、犯罪の場合と結びつけるのは強引かもしれないけど、根源では坪内の主張と同じだと思う。

WHOが危険視しているのは、喫煙が及ぼす害を認識しないまま、創作物をきっかけに安易に喫煙を始めてしまう事なんだろうけど。
でも、人の口に戸を立てられない世の中で、ましてやネットの海を渡れば死体だって見れる世の中で、創作物の公開に規制をかけたところで喫煙行為そのものを見せないことは不可能だよね。親戚・近隣住人・友人知人に喫煙者がいれば喫煙を「カッコイイ!」と思う機会は充分ある。さらに言えば、駅や飲食店などで見かける中にめちゃくちゃカッコよく喫煙している大人がいるかもしれない。映像で観なくても、小説や伝記などで憧れる場合だってある。
ほんと、きっかけはどこにでも転がっているんだから。

この問題を解決できるのは教育によって、喫煙がもたらす影響について理解させることじゃないかな(日本でなら、家庭での教育と学校の保健体育の授業ね)。
少なくとも、創作物の公開の規制ではないだろうと思う。


モノカキの私にとって、登場人物が喫煙することは、喫煙の推奨などではなく登場人物の性格付け・人となりの表現の要素の一つ。
陽気のいい日に「どうしても吸いたいなら、ベランダで吸ってね」と言われて止めるならば、あくまで嗜む程度の喫煙者。
真冬にも関わらず文句を言いながらも席を立つなら、かなりの煙草好き。
未成年なのに喫煙している描写をしたなら、その人物は不良少年だと説明したい。
吸い殻を道端に捨てる描写をしたなら、その人はマナーがなっていない人間だと説明したい。

きっと上手い役者ならば、煙草の持ち方ひとつ吸い方ひとつで、自分の役を表現することだろう。
でも、これは創作物の世界で動く人物に現実味を持たせるための表現であって、現実の人間を扇動するためではない。


『小説神髄』は明治初期に記されたものだけど、こういった作者側の感覚について、こんなに時代が流れても理解が広まらないものなのかなあ。
No.214



  2016/1/29(金)
  春と青   
  前回の日記が1/24で、今が1/29。なんだか日記っぽくないですか!
ん? 1/24は1/24でも、二年前の日付ですって?

はて、なんのことやら?(゜ Д゜ )

…………皆さま、おひさしぶりです。明けましておめでとうございます。m(_ _)m


閑話休題。
先日、友人から
「どうして昔のエッチな絵のことを春画っていうんだろうね? ピンクな感じだから?」
と訊かれた。
ピンクな感じだからかは分からないけど、「春画」だけでなく「春をひさぐ」という言いまわしもあるし、性行為にまつわる漢字として使われている。(どうやら、生命活動の始まりの季節である「春」には、生命の始まりのきっかけである性行為の意味が含まれるらしい……?)

友人の発想とは逆になってしまうけど、「性的なものにはピンク色のイメージがあるけど、それって春のイメージに引きずられたからなのかなあ」とも思ってしまう。
でも、そもそも「ピンク=性的なもの」というイメージって日本だけなんだよね。英語では青に性的なイメージがある。ブルージョーク(下ネタ)とかブルーフィルム(あっはんうっふんな映画)とかね。
余談だけど、私がblueに性的な意味があると知ったのは、Earth Wind & Fireの『September』の訳詞に挑戦したときに「blue talk」という言い回しに悩まされたからだった。

……で、考えてみれば、春と青って同じなんだよね。
以前書いた日記「漢字」(記事No.157、書いたのは2010/12/6・笑)に通じる内容になるけど、五行思想の木行が、五時では春に、五色では青にあたる。つまり、同じグループの仲間みたいなものなんだよね。

この共通点はいったいなんだろう。
もちろん、性的なイメージが春にあるのは日本で、青にあるのは英語圏で、五行思想は中国で生まれたのだから、因果関係はないのだろう。実際、この偶然の一致に気づいた後に調べたら、その他の国では全く違う色(中国では黄、イタリアでは赤、スペインでは緑)に性的なイメージがあると判った。

でも、なんか偶然の一致って面白いよねって話。
二年ぶりの日記の出だしが春画であったことに後悔は無い。
No.213




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