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No.183 への返信フォームです。

▼ 五番館
  あらや   ++ ..2009/10/05(月) 20:29  No.183
  札幌・五番館の閉店はなぜか悲しい。(つぶれるなんて考えたこともなかった…)

 103年の歴史に幕 札幌西武が閉店
 札幌西武(札幌市中央区北4西3)は30日、最後の営業を終えて閉店した。大勢の買い物客に見守られ、前身の老舗百貨店・五番舘時代から数えて103年の歴史に幕を下ろした。
 閉店時刻を25分すぎた午後8時25分に最後の客が退店し、従業員が正面玄関に整列。馬場達也店長が「長い間のご愛顧ありがとうございました」とあいさつするとシャッターが下ろされ、集まった約500人の市民から拍手が送られた。
 札幌西武は1906年(明治39年)に開業した五番舘が前身。82年に西武百貨店と業務提携し、90年に五番舘西武に改称。女性ファッションを中心とした品ぞろえで支持を集めたが、個人消費の落ち込みなどで売り上げが低迷。2008年度の売上高はピーク時(1991年度)の約3割の124億円だった。
 閉店後の土地・建物について、そごう・西武(東京)は売却の意向だが、売却先は未定。テナントとして入居する生活雑貨専門店の札幌ロフトと無印良品は年内、現在地で営業を継続する。また、正社員69人は配置転換などで雇用を維持するが、契約・パート従業員160人は10月末で契約を打ち切る。再就職先が決まっているのは現在15人程度という。
写真=大勢の市民が見守る中、シャッターを下ろし、103年の歴史に幕を下ろした札幌西武
(北海道新聞 2009年10月1日朝刊1面)

 
▼ 卓上四季
  あらや   ++ ..2009/10/05(月) 20:31  No.184
  同じ日の一面コラムが啄木話題をとりあげていた。

 石川啄木は函館大火に遭った後、札幌に移り住むことにした。汽車が駅に着くあたりの様子が「札幌」という小品に残されている。広い通りが秋雨の中に煙って見えた。「男も女もしめやかな恋を抱いて歩いているようにみえる」▼迎えに来た知人が駅前で説明した。「この通りはアカシア街と呼ぶのだ。あっちに大きい煉瓦造りが見える。あれは五番舘というのだ。どうだ、気に入らないかね?」。「いい!いつまでも住んでいたい」。啄木は、文中の自分に答えさせている▼啄木が札幌を訪れたのは1907年だ。五番舘がデパートとして開業した翌年である。横浜外国人居留地の洋館を模した真新しい百貨店は、その目にも印象的だったようだ▼もともと「札幌興農園」という農具や種苗の店だった。札幌に電話が開通した当初、番号に一けたの5番が与えられた。ここから、横浜の居留地の「何番館」という言い方にならい「五番舘と名付けたのが真相のようである」。札幌市史はそう書く▼かつて市民からは「三越は見る店、丸井は遊ぶ店、五番舘は買う店」という評判が立ったそうだ。だが「買う店」の時代も永遠には続かない。後身となった「札幌西武」が、きのうで店を閉じた▼郷愁ばかりで商売をすることはできない。それはわかっているが、札幌の風土から生まれ育った老舗が消えてしまったのは、やはり寂しいことだ。
(北海道新聞 2009年10月1日朝刊「卓上四季」)

 
▼ 明治40年
  あらや   ++ ..2009/10/05(月) 20:36  No.185
  時々思うのだが、啄木の北海道漂泊の明治40年(1907年)というのは、近代日本の「百年」を考える際の非常に良い目盛りになるのではないかということだ。

例えば、この「五番館」の前身「札幌興農園」。その更に前身の「興農園支店」(本店は「東京興農園」)の書籍雑誌部が発行していた「興農雑誌」は、日本のカタログ(通信販売)商法の先駆けでもあり、また、当時の最新メディア(月刊誌)を通しての農民啓発を試みた点でも大変画期的な存在ではあった。(手近に校本全集がないので確認できないが)花巻農学校教師だった宮沢賢治はもちろんこの「興農雑誌」を購読していたというし、羅須地人協会時代の花壇設計メモには札幌の種苗店をリストアップした一枚があり、中でも「札幌停車場前 札幌興農園」と「札幌市南二条西十三丁目 札幌第一農園」の二店には二重丸が振ってあったりする。(おそらく通信販売を利用していたのだろう) 蛇足ですが、「札幌第一農園」の建物設計は田上義也。

例えば、活動写真。北海道の映画館(活動写真常設館)は、明治42年春の函館「錦輝館」、翌43年の旭川(第七師団移転で好景気)と続くのですが、このことからも、啄木が漂泊した明治40年〜41年の北海道の民衆娯楽環境がかなり想像できるようになります。つまり、活動写真前夜。夜明け前。一世を風靡した娘義太夫ブームが終わり、浪曲が我が世の春を歌う明治40年代。事実、浪曲の大スター桃中軒雲右衛門や吉田奈良丸が来道したのが明治41年。反対に、啄木が活動写真を観るのは東京に戻った明治41年の浅草。トゥルビョン号の飛行フィルム映像は、啄木に「見よ、今日も、かの蒼空に/飛行機の高く飛べるを。…」という美しい詩を生み出させます。

この間の落差を埋める目盛り太線のひとつが、私には「啄木の明治40年」なのですね。映画もラジオもまだない(あるいは、電話や新聞や鉄道はすでにある)時代の民衆の姿や世の中の流れをどれくらい活き活きと正確にイメージできるかどうかが、ある意味、私の生命線なのかなとはいつも考えます。そんな目盛りのひとつに「五番館」も入ってしまったんだなと思うと(ぶつぶつ繰り返して申し訳ないが)ちょっと悲しいのです。

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