| さっそくに御回答いただき、ありがとうございます。甲陽軍鑑に 八幡原に信玄布陣の記述が無く、(友人の入知恵ですが)長野市役所の危機管理防災課で洪水のハザードマップを拝見したところ、百年に一度の洪水の際、八幡原は2メートル以上5メートル未満の水中に沈むと想定されていました。合戦のあった1561年当時もほぼ状況は同じと思われますので、出水時は水が引いた後も湿地帯のような状態ではなかったかと推測されます。よって八幡原に信玄が陣を敷いたとされることには疑問を感じております。広田砦付近から御厨・合戦場が主戦場だったとすれば上杉家御年譜(謙信編)p.173の”(信玄が)諸士ヲ下知シテ御幣川ヲクタリニ 又雨宮ノ渡リヲ志シ・・・”という記述とほぼ合致するのではと思われます。おかげをもちまして、私の中の川中島の霧も薄れてきた心地がいたします。重ねてありがとうございました。 拝復
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..2015/11/10(火) 13:21 No.254 |
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