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2010年6月15日(火)
   感想より  ..No.60
ベルばらにどっぷり浸かっていた時期も過ぎ、少し離れたりしているうちに数年が過ぎ、この文章自体も2004年に書いたまま放置していた。
今はもっと別の考え方もあるが、ひとまず物事を考えていくステップとしてこれもアップしておこうと思う。

今までに頂いた解説へのご感想にはいつも頷かせられたり、うなってしまうほどの新たな考え方もあり、いつか公開したいという気持ちもあるが、ご本人方の了承を得るための手間を考えては挫折している。ちょっともったいない気がする。

かなり前になるのだが、「アニメのオスカルはアダルトチルドレンだと思っています」というメールをいただいたことがある。それも一度では無かったと記憶している。
実はアダルトチルドレンという言葉の正しい定義は知らないのだが、私も自分なりの解釈でオスカルをそういう見方でとらえていた部分がある。

生まれた瞬間から自分の性を否定される、男として生きなければ両親から認めてもらえ無い。オスカルの必死の「自分押さえ」が始まる。
……と、いう感じで書いたと思うが、こう書くと読まれた方の中にはピンとくる人もあろうかと思う。
誰しも家庭で一度は「あんたなんかウチの子じゃない」とか「○○子が男だったらなぁ」などと、自分を否定される言葉を大なり小なり親から言われた事はあるだろう。
それは程度にもよるが、そんなに問題にならずに通り過ぎる事もあるし、心のどこかに引っかかったまま大人になる場合もある。

問題は言葉そのものより、言われたときの不安な感情が記憶として残ることであり、そのマイナス感情を癒すことが大事だ、などという事をどこかで聞いたことがあるが、ここではそんな難しい事はひとまず横へ置いておき、解説の中でオスカルが「アダルトチルドレン」ではないだろうかと匂わせるような事を少し大げさに書いたかも知れないと言うことは自覚している。

オスカルの…特に衛兵隊に入ってからの様子を見ていると、彼女の心を推察するには、やはり男として育ったプラス面、マイナス面にスポットを当てて考えてしまう。
彼女が革命に突入していく行動を無理矢理に理由付けするのも一個人の妄想的「解説」なのである。
本当は理由など無かったかも知れないし、はっきりとした動機など私のような他人にわかろうはずがないのかも知れない。

特に優柔不断な私のことである。色々なオスカル像を想定していくうちに、どれも捨てがたく、こうかも知れない〜?ああかも知れない〜?と悩んだあげく、結局数パターンのオスカル像を書いてしまった。
読んで下さる方がその中のどれかにヒットしていただければと、開き直っていたのだが、おかげでこの解説を書いた私自身の基本的な視点もかなり曖昧になったのではないかと思う。

以前、頂いたメールでは私が従う発言にかなりこだわっているのをしっかりチェックされてしまったのだが、実のところ原作から入った人からすれば「従う発言」に対する批判はすこぶる多いのではないかと思っている。

それらの批判に対して別の見方をしてみようと、まず過去に自分が抱いた不快な気持ちを思い起こし、批判する気持ちを分析し、それから多角的に見てみようとした。
元々、優柔不断な性格である。あれこれと考えるのはこういう時は得意なものである。おかげで従う発言に関する記述が途方もなく長くなったかと思う。

結果として「従う発言に対してなーかるは今でも納得がいかずにこだわり続けているのか?」それとも「従う発言を養護するために長々と書いたのか」、一体どちらなのかわからない状態になっている。

どちらでも、読まれた方が「しっくり」する方で自由に捉えてもらったらいいのだが、私のアニメオスカルラブ度はそもそもこの解説の長さからして相当な物である。
頂いたメールへの返信文をそっくり流用するが、「なぜなら私の大好きなオスカルが何を言おうと、どう行動しようと、とにかく好きなので、従う発言などはどうでも良いことなのです。まぁ、それだけ彼女の人間性に信頼を置いているってことかも知れません」というのが本心なのである。



2007年6月24日(日)
   残さないという残し方  ..No.59
ベルばらな日記59


人間、人生において、多分誰でも何かを残そうとする。子供とか、名声とか。

子供は自分とは別人格なので、残していく「もの」と言うのは語弊があるかもしれないけれど、命を受け継いでいく存在であるし、とにかく、何かの形で自分が生きた証しを残そうとするのは一般的な考えだ。
原作でもオスカルは「崇高な理念」を掲げて人生をまっすぐに突き進んだ。

アニメではその考えがぶち壊されていたと言うか、自分を何も残さないオスカルに私は感動したのかな…。
自分の持っているものを与えきり、自分を使い切って、結局最後に何も残さずに去っていく姿勢というもの。

たとえば原作ではバスティーユというのはオスカルの残した実績みたいな感じがあるけれど、アニメではただ、彼女を消耗したって感じ。

もちろん、原作のように、オスカルが意図せずとも自分が生きた証しを残したのも感動的だが、アニメのように自分を使い切ろうという行動を映像として目の前で見せつけられたら、そこには壮絶感がある。

こういう生き方を賛美すると宗教的に聞こえてしまうかも知れないけれど、「ああ、何か残そうとするのではなくて、自分を使い切るという生き方も、人として有りなんだ」と、アニメを見た時はちょっとした衝撃を受けてしまったんですね、私は。

それにしても…久しぶりに書き込んだのに、支離滅裂だし、相変わらずアニメを受け入れられないワケばかりになってしまい、何でアニメ版をメインに扱っているサイトなのに、批判について語っているんだろう?私?という疑問も持ちつつ……

しかしまぁ、自サイトだから、色々と仮説なり、大げさな解釈などをぶちまけているが、他所様の所でここまで誇大妄想的な事はとても言えないだろうなぁ。(^_^;)


2007年6月24日(日)
   オスカルもラクじゃない  ..No.58
ベルばらな日記58


久々の書き込みになる。

かといってベルばらから離れていたわけではないが、別の所で創作などを始めていて、こちらに回す力の余裕が無かった。
でも、創作をひとまず気が済むまで書いたおかげで、結果的にオスカルを見つめ直すこともできたし、色々と考えることも多くて、とても面白い経験になった。

とにかく頭にあるものを実際に文字や絵にして創作して行くというのは、ただ単に「こんなものを作りたいなぁ」と思っているだけの時とは全く違うのだということも改めて感じた。
で、その合間にちょこちょことメモって来たことがたまったので、つないでまとめて久しぶりに日記にしてみた。


今となっては「アニメ版のベルばらは受け入れられない」という話はあまり聞かなくなって来たのだけれど、今もこの事について考えることがある。

ベルばら、特に原作に愛着があり、こだわりもあり、その上でアニメ版のベルばらは受け入れられないとなると、自分の体験から言うと、それは突き詰めるとアニメのエピソードの好き嫌いではなく、自分の心の中の問題であり、本当に解明すべき事は自分の中にあるのではないかと思っている。

たとえば「アニメのオスカルは失恋が原因で近衛隊を辞めた」という批評を例に挙げと、オスカルは現状から逃げ出したとか、感情的すぎるとか情けないとか、見ている側はそういう失望の気持ちになってしまったのではないだろうか。
(と、私が感じたのは本放送の頃だからかなり前のことなのだが…。)

だけどフェルゼンがアントワネットとの関係に苦しんでアメリカ独立戦争に行っても、なぜか彼の場合はあまり抵抗がない。
彼も恋に苦しんで逃げ出したのに、見ている側は失望もしないし、かえってすがすすがしい。

確かに好かれている相手から逃げるのと、片思いの恋敵から逃げるのとでは場合は違うが、もしオスカルと同じ立場でそれが男性だったとしたら、オスカルに感じたほどの失望を受けるとは断言できない。

同じ事をしていて男なら潔いとさえ思えるのに、女のオスカルがすると、弱いのではないかと思えてしまうのは同性に厳しく見てしまうせいなのかなとも思う。
あるいは一般に「女は感情的に物事を判断する」と言われている常識にオスカルが沿っているような気がして、「そんなことで辞めるオスカルって弱い」と思ってしまうものなのかも知れない。

しかし、「あの場面が駄目だ」とか「こう言うのがおかしい」という「外の原因」を探すのも良いが、自分の心の中で「オスカルはこうあるべき」と言う強いこだわりがあり、それが何であるかを解明しなければ、アニメ版を受け入れられない原因になかなか到達しないのではないのだろうか。

それにオスカルが感情的に行動することについて「だから女は…」と見下げて言うのなら、この考え方は男性から見た視線じゃないか?なんてことも同時に思ってしまう。
結局、そんな男性的視点に、女性はすっかり慣れてしまっているのかなぁ、と。

でも、本当のところ、オスカルの行動を男性の視点から見たのであれば、「だから女は…」という男尊女卑という見方ではなく「女なのに男として育てられて可哀想」等々という男ならではの優しさなんじゃないだろうか。
多分、男性から見て、オスカルを見つめる視線は、実はとても優しいのではないかと思われる。

誰しも自立しようとした時、頼むから助けの手は出さないで!とか、一人で出来るから私を放っておいて!と言ったふうに自分に厳しい態度に出る。
それをオスカルに当てはめると、フェルゼンに対しては大目に見ることができても、オスカルが失恋で近衛隊を辞めたことに対しては許せないという、同性ならではの厳しさがあってもおかしくない。

で、まぁ、あれこれ考えると、同じ女性として、オスカルを見守る目は厳しくなくてはならない、という考え。
オスカルのオスカル「らしい」行動は、ファンによって厳しく審査?監視?チェック?されている、という事。

彼女は男性にとってのシンボリックな存在であるマドンナ的存在でもいけない。
あくまで生身の人間であり、男性の庇護を受けずとも自立できる人間でなければならない。
時には男性の見守る目を拒絶することすら「オスカルらしさ」の態度表明として必要なのだ!とも言える。

そうすることによって、オスカルは同性である女性に評価され、女性の底力を証明した彼女に信頼を置くのである。

ベルサイユのばらが女の自立を謳っているのだとしたら、男の視点から見た「かばい・異性への優しさ」も、この際、邪魔な物としかみえない。
男の優しさも女の自立を描くためには邪魔なもの!

たとえば作品を作る者が女性ではない、ベルばらのように総監督という立場の者が男性である場合、オスカルを見守る目、つまり「オスカルを操作する」という意味で、オスカルの上に立つ者が男性であっても、同じ事が言える。
オスカルの上に立ち、つつみこむように見守るのは男性であって欲しくないという生理的とも言える「こだわり」が生じてくる。

でも本当はそんなこだわりが気にならなくなり、自然と男の優しさを受け取るのもまたオトナじゃないかと思うけれど、それはある程度、自分の中で柔軟性ができてきてからのこと。

以前よく、ドラマなどであった「女にわかるはずかない」という優越的な「男の世界」。

「私、女だからわかんない〜。でも良いわね、男同士って」と女に言わせて羨ましがせる意図がありそでなさそなこのセリフなのだが、それの逆バージョンで「男にわかるはずがない」という女の強さを声高らかに歌い上げる存在こそがオスカルなのだ!という想い。

今までオスカルを支え続けてきたアンドレの死も、オスカルがそれを乗り越えて先に進むことで、最終的には男性の手助けを借りずに大事を成し遂げるという結果を生んでいる。

オスカルは常に自立と自主性の象徴で有り続け、有る意味、男性に対してそれらを示していると言えるかも知れない。

何度も書いたとは思うが、たとえそれが原作者の意図でないにせよ、当時の少女がオスカルの存在をバネに、もう少し高いところにステップアップしようとしたとしてもおかしい話しではない。

大げさに言えば、自らのステップアップのため、男対女という対立を前面に打ち出し、優位に立つ?男性を仮想敵にすることによって、女性がパワーアップする原動力として変換していたんじゃないか、なんて事も思う。

ベルばらな日記59に続く


2006年7月6日(木)
   ビジョン  ..No.57
ベルばらな日記57


原作、アニメ共に、どしてオスカルはバスティーユで絶命しなければならなかったのか、もとい、どうしてその場で亡くなるのがいかにもベストに感じるのだろう。
バスティーユで命を落とすのは本当に散り際として美しいが、それは彼女自身がどこか自分の命を散らす場所を探していたんじゃないかとさえ思えてしまう。

またまたここで原作とアニメとを比較するのは今さら何だが、原作オスカルは結構ポジティブに描かれていて、セリフなどを見ると「男として育ち、跡取りになると決めた」と表現しても不思議はないが、アニメの場合は「男として育てられ、跡取りになると決められた」という風に受け身で表現してしまいそうになる。
人生の決定が自発的か、他者からの強制かというのは大きく違う。
又、与えられた運命に対し、肯定的か否定的かというのもあるだろう。

アニメを見て、オスカルが暗い、冷たい、意志が見えないというのは、多分、このあたりの受け身に見える演出のためかも知れない。
まあ、それがいかにも現実的で等身大っぽくてイイ!と思ったからこうして延々とレビューを書いたので、特にそれを批判するつもりはない。

ところで、原作では男性の社会的な有利性、女性としての可愛らしさを両立し、両性のいいとこ取りをしているところが、何とも女性としてはおいしい話だったが、現実を見るとなかなかそううまくいかない。

もしリアルに、男として育った女性を描くと、ほとんど思考も行動も男と化し、ガハハと言いながら足をカパッと広げてビールをあおっても不思議ではない。
しかしちょっとこれではオスカルのイメージを損なう。

でなければ自分が女性であることを常に意識し、男として生きることを義務づけ「られた」アニメのように、どこか憂いを帯びてしまいそうだ。
「背負わされた運命」という受動的な姿勢は、映像まで哀調に見える。

と、何度もここで受け身とか受動とか書いていると何となく弱々しく感じるが、別の見方をすれば、受け身だからこそ、外からの圧力に抵抗する自我がそこにあるということでもある。
その控えめな自我の表現がアニメではとても映像として美しい。

いや、誤解される前に言っておくが、別にここで原作と比較して、原作には自我がないと言っているのではない。

で、話は元に戻るが、これほどまでに違う原作とアニメなのに、何でバスティーユで絶命するのが両者共しっくりくるのだろう?
又はバスティーユで絶命することはやはり仕方ないと思えてしまうのだろう。
とあれこれ考えて、一つ思い当たる事は、実のところオスカルはどのような将来を描いていたのかがよく見えないという事だ。

第一、彼女が将来、自分がどう生きたいかというビジョンを全く語っていない。
たとえば、人には夢や願望が普通ならあるはずなのにオスカルには見あたらない。
つまり彼女自身が、自分の人生の長いスパンの未来を考えようとせず、目の前の一大事や、自分の身を忙しくすることで、肝心な将来の設計図を考えないでおこうとしたようにさえ思えてしまう。

アニメで言うアランの「あの女は何かから逃げている」というのは色々と解釈できて面白いセリフだが、「将来のビジョンを持っていない」ことに該当するのではないだろうかとも考えられる。

確かにバスティーユ後に、身分を捨てて王室から寝返ったオスカルには、華々しく活躍する場が思い浮かばない。
彼女はやはり宮廷時代の華として、やがて革命と共に滅びる運命の象徴として描かれていたのだろうなと納得してしまう。

言い方を変えると、彼女の生き方がどこかで終わってもいい人生で、ひょっとすると死に場所探しに思えたのは、将来のビジョンがないからという答えを導き出すのは極端だろうか。

だが、人として普通、将来はああしようとかこうしようとか、たとえ漠然としていても何か少しは自分の未来を思い描くものだろう。

フェルゼンの妹のソフィアが、オスカルを差して「ああいうタイプは長生きできない」と明言していたが、彼女にはオスカルの将来像が全く見えなかったからそういう発言をしたのではないだろうかとさえ思える。
怖ろしい洞察力である。さすがしっかり者の妹という感じだ。

女ながら男として生きるという事自体が、将来のビジョンを描きにくくしているとすれば、オジサンにもオバサンにもなれないオスカルが気の毒である。

又、原作・アニメ共に、彼女が持っているビジョンをただ単に作品上で描かれないままになっているとすれば、オスカルとはどんな未来を描いていたのだろうかということも気になる。

他人事ではなく、もし明日以降のことを考えず、目先の仕事や手近な急用ばかりに気を取られていると、人は地に足がつかないんじゃないか、などとも思う。

ベルばらで色々と学ぶこともあるが、人の営みとして、自分の将来をスケッチするということは大切ではないのだろうか。

私ですか?
そりゃあ、もっと人生、きっちり設計していたら良かったと思う事って多々ありますよ。
まあ、何はともあれ失敗も経験です。

(解説ではバスティーユでのアニメ版のオスカルの死がどこかしっくりこない、納得できないという風に書いていると思います。今回の「原作・アニメ共にしっくり」については、アニメ版のオスカルがバスティーユでの絶命したことよって物語のテーマが語れ、完結しているから仕方ないことだったのだろうか、という感じで読み流して下さい(^^;)ささ〜っと)


2006年6月9日(金)
   サン・ジュスト活用法  ..No.56
ベルばらな日記56

日常生活の中で時々、これをネタにしてみよう!と思う出来事があるのだが、書かないままに終わってしまい、結局それでは元々ネタがないのと同じ状態である。
それもむなしい。

で、些細な事でもいいからネタにしてみようと、今日ふと思ったのがジャルジェ父が狙撃されたあたりのエピソード。
ちょうどサン・ジュストが登場してきてテロリストぶりを発揮しているところで、間違って撃たれてしまったのがジャルジェ父。

すぐに駆け付けて父の無事を知るなり泣き始めるオスカルにハンカチを差し出すアンドレの優しそうな顔は、ついリモコンを戻して何度も見てしまう場面でもある。

ところで、この場面はサン・ジュストとのからみをうまく利用したなぁとつくづく思う。
アンドレと少しぎこちなくなってしまっていたオスカルが、彼のさりげない優しさを再認識し(思い出し)、押し倒し以後、意地を張っていたんじゃないかと思われる彼女が態度を変えるきっかけになったであろう。

それと重傷を負って弱気になったジャルジェ父が、悪くなっていく世相を反映して、今こそ潮時とばかりにオスカルを女性扱いし始め結婚をさせようという気になるところでもある。

又、オスカルも床につく弱々しい父の姿に、きつい反論も出来ない。
あるいは、横にいるアンドレも心に動揺を抱えたままながら、表に感情を出さない。
三者三様の腹の探り合い?は、からみ合う人間関係として見ても面白い。

死の天使長などと異名を持つサン・ジュストなのだが、この件についてはマジで二人の関係修復に一役買った天使とも言えよう。

ちなみにサン・ジュストがロベスピエールと知り合ったのはバスティーユ事件の一年後あたりだそうで(正確には知らないが)、もちろんテロリストとして活躍もしていないのは有名な話。

だけど、夢想的な性格っぽくて、どこか危うげな感じで、人の生死に対しても冷静そうな無機質なイメージが強いのは、あの美貌で原作に突然登場した印象が強いからかも。


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